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garan
 養老瀑泉詩歌碑
粤有山翁貧嗜飲 常思縦酔一厭然
婦営紡績供衣食 子務樵蘇要酒銭
貞節絶倫驚上世 孝誠出類感旻天
夢中鷲卵化金玉 巌下神靈涌醴泉
日々把盃懐巳足 時時浴躰病皆痊
從容共嘯旧棲月 返少遂成陸地仙
皇帝幸臨称瑞物 國家大赦改元年
爾來養老流無尽 水性及今施徳全
聞人や 袖ぬらすらん たらちねの 
老を養ふ瀧のむかしを なる神の 
音かと聞けば 多度山の 雲にとゝろく 
たきつ岩なみ 
元文丙辰夷則上浣 
 濃之芸縣押越村道順謹銘
garan
「渋谷代衛君紀功碑銘」釋文
従二位勲四等侯爵徳川義礼篆額
渋谷代衛君紀功碑銘
東京高等師範学校教授従六位勲六等 渋谷啓撰
美濃著姓、渋谷代衞君、既歿之七年二月、朝廷腸銀盃一個於家、賞其遺功、於是其子豊之助、具状至啓舅谷如意翁泣請曰、郷人将為先考勒石於養老公園以伝不朽、願先生為之文、舅以耋老辞命、啓代之謹按君之功、可紀者有三、曰設郷校也、曰開公園、曰施防水工事也、君旧多芸郡大野邨人、家世里正、初 朝廷頒学制、君首捐別邸、充校舎、雇師教、児童数十名、給書籍筆紙、庀器用者年、邨民頼恵、養老勝蹟荒穢日久、大官某氏嘗来遊慨之、勧県令修治、県令謀之君等、君唱導同志醵金購地、新闢坦途、構楼其上、雑植桜楓、以為溝息之処、設法永存、郡之地形以牧田川分南北、其南則除多度山麓高原、揖斐津屋両川東西夾之、金草川横亘其間、合流牧田川、外環以大堤、号曰多芸輪中、而輪中又分為数区、多築小堤以備大堤潰決、其費皆出于邨民、封建世、公邑藩封犬牙相錯、賦課軽重失宜、土功議多阻不行、明治中興百度釐革、君以為不及此時、改旧慣和同共済尽力大堤、則不能竟免昏墊之害也、乃巡遊諸村、歴説耆老、皆頑然不応、君百方暁諭、久而後悟、請県創水利土功会、謀期十年修築、毎歳議決
先其要衝、漸次及余、遂得竣功、十七年夏木曽長良揖斐三川暴漲、各郡変為一大湖、県令大憂之、将上京請政府救済、率君同行、君詣諸要職訴災民窮状、辞旨悃惻、政府為発金数万円賑之、盖君為人温厚勇于義、事親孝、家
門雍穆、僮僕訢訢如也、郷党有争訟数年不決者、籍君一言而解、以故特為名古屋大垣両藩主所優遇、前後捐私財五万円、晩年得病荏再不愈、又遭大震壊屋、乃集餘材再築、卑陋僅蔽風雨、名曰弥縫庵、取国音与貧乏相近也、
及歿嘱家人曰、我私謀利世、為家産其愧于祖先、我死汝等必薄葬、勿使重得罪矣、遠近聞者無不痛惜焉、君諱政貞、号枕江、考代右衞門妣中島氏、以文政七年三月二十五日生、明治二十九年八月十八日歿、寿七十三、葬邨之
覚林寺塋域、配宇佐美氏生十一子、男豊之助理兵衞孝次、理兵衞承家、豊之助孝次竝出為人、後三女皆嫁、餘夭、啓辱列宗末、夙欽君功、又感袞褒之恩、乃承舅意而叙之、且係以銘曰
多度之山  神瀵涌焉  翠華曾幸
嘉瑞紀年  君謀復勝  乃治乃宜
卉木改色  林巒加妍  教我子弟
阪我河川  利民済物  厥徳無愆
豊碑屹立  在彼山巓  石或可勒
盛名不騫
明治三十六年三月 
    正五位 日下部東作書

碑陰:
明黨年来懐徳恵 雰気身後賜恩褒 
斯翁功績将何比 養老之山千古高
近江族姓 四位 谷鋏臣題
なると4
浄瑠璃寺(愛媛県松山市浄瑠璃町)2017/7/15浄瑠璃寺(愛媛県松山市浄瑠璃町)2017/7/15浄瑠璃寺(愛媛県松山市浄瑠璃町)2017/7/15
一願弁天の左奥に蓮池がありました。
シオカラトンボが蓮の蕾に止まっているところが撮影できました。
なると4
浄瑠璃寺
 四国八十八か所の四十六番札所である。寺名は、医王山浄瑠璃寺、本尊は薬師如来である。寺伝によると、和銅元(708)年、僧行基が開山、自ら白檀の木で本尊をつくったという。
 室町時代末期、荏原城主の平岡通倚が病に苦しみ、この寺の本尊に祈願し、まもなく全快したため、土地を寄進して堂宇を建立し、深く帰依したと伝えられる。その後、正徳五(1715)年に山火事で建物、本尊すべてが消失したという。
 江戸時代中期、この村の庄屋井口家から仏門に入り、当寺の住職になった堯音(1733~1820)が寺を再興したと伝えられている。堯音は、久万からの遍路道が、毎年のように出水時に流され、人々が難儀していることを知り、七六歳で托鉢僧となった。各地を回り喜捨を集めた堯音は、岩屋寺あたりから順に川に橋をかけ、最後に立花橋をかけた。今も、丹波橋、出口橋など、堯音がかけた八本の橋の幾つかが伝えられている。

松山市教育委員会
なると4
塔には「生きとし生けるもの命永〇〇〇らかに」と刻まれています。
説明柱には「あらゆる生物の慰霊と存続を祈る おん かかかび さんまえい そわか」とあります。
※真言は、地蔵菩薩のものです。
なると4
説明柱には「仏手花判 ほとけの指紋 なでて心身堅固文筆達成成功を念ず」とあります。
なると4
説明書きには
「おしゃかさまが説法され修行されたインド霊鷲山の石が埋めこんであります。中央のもようの中」
とあります。
なると4
説明書きに「ハダシで踏みなさい」とあいます。
なると4
横の説明柱には「高く知恵の燈を掲げて あなたの人生を照らします」とあります。
なると4
石の上部にはお釈迦様の手形があります。
横の柱には「あらゆる文化を造り出す手に感謝…」とあります。
なると4
イブキ 三本
       松山市指定天然記念物
       昭和43年10月25日指定
 地名、イブキ。ヒノキ科ビャクシン属の植物で別名イブキビャクシンよばれ多くの品種・変種がある。福島県以南の海岸地方や島に多く自生しており、園芸品種が多く、公園・庭園に植栽されることも多い。
 この境内にも三本のイブキの大木がある。これらの大きさは、それぞれ胸高幹周4.8メートル、3.5メートル、3.3メートルあり、高さは約20メートルあって、樹齢は1000年くらいといわれている。残りの二本は本堂裏にある。
 このほか、市内では上野町大宮八幡宮内に金平狸が住みついていたという伝説で有名な幹周5.2メートルもあるイブキがある。

       松山市教育委員会
なると4
薬師如来は九横(九つの災難)を救う
一、不治の病の患る
二、暴力非行に会う
三、淫酒に耽れる
四、火熱傷をおう
五、水難にあう
六、獣蛇に咬まれる
七、崖から転落する
八、毒呪に中る
九、渇き飢える
winecolor
>がらんさん

ご指摘ありがとうございます。
タイトルを修正しました。
親マップ: 平井老農之碑 by winecolor
garan
「老農」ですね。
親マップ: 平井老農之碑 by winecolor
winecolor
>がらんさん

情報ありがとうございます。
winecolor
>がらんさん

解読及び情報の提供ありがとうございます。
タイトル及びタグを修正しました。
親マップ: 平井老農之碑 by winecolor
garan
おはようございます。
この額はほかで画像を見たことがあるのですが落款印の一つに「石黒敄(務)印」とあり、もう一つは欠損していました。石黒務は元彦根藩士石黒伝右衛門の維新後の改名です。
garan
牛丼松屋之碑
winecolorさま おはようございます。□に字入れしてみました((´∀`))
「平井老農之碑」が正解。農学士平井重蔵の碑です。「井」の篆書は「丼」のように点を添えて井戸に水があることを示す指示文字でしたが後に省略されて「井」となりました。丼の字は日本で作られた国字ですが篆書の井と同型になってしまいました。
 あと松島錬精の碑とともに次のような資料が見つかりました。

「二宮尊徳翁五十年記念会」以前における報徳社とその周辺 大学教育開放センター前田寿紀(金沢大学)

・(明治)33.10.13 引佐郡長田名瀬勝則、磐田郡長池田忠一等 、「三遠農学社」秋季大会兼故松島練精・故 平井重蔵建碑式に式辞。西郷従道、三遠農学社長松島練精翁紀徳碑に篆額(撰文重野安繹、書成瀬温)。前引佐・麁 玉郡長松島十湖、平井重蔵の碑に篆額(撰文太田有終、書吉川康) 『大日本帝国報徳』第52・53編

これを参照に画像を拝見すると 松島十湖篆額 大田有終撰 吉川康書と見えます。石工の名は拡大しても見えませんでした。
親マップ: 平井老農之碑 by winecolor
winecolor
>碑臓さん

コメントありがとうございます。
そういえば似てますね。
親マップ: 紫式部像 by winecolor
水辺の女性像を見てコペンハーゲンの彼女を思い出しました。
http://hizou.30maps.com/map/172622
ロケーションが似てます。
親マップ: 紫式部像 by winecolor
winecolor
2019/7/19に日本テレビ系で放送された「1億人の大質問!?笑ってコラえて!/日本列島記念館の旅/源氏物語ミュージアム」で見ました。
親マップ: 紫式部像 by winecolor
winecolor
天狗の面の長屋門は残念ながら再建はされないそうですが、バス通りに面していた天狗の面は、
高岡公民館の敷地内に移設されていました。
http://hizou.30maps.com/map/178972
garan
Juan氏情報をもとに検索、乾隆帝の亀趺碑が九基もあるとか(ΦωΦ)
https://blog-001.west.edge.storage-y...
>がらんさま

おはようございます。ありがとうございます。
今後もよろしくお願いいたします。
親マップ: 鬼貫句碑 by たこはち
winecolor
>がらんんさん

こちらも解読及び情報の提供ありがとうございます。
タイトル及びタグを修正しました。
親マップ: 青竜軒碑 by winecolor
winecolor
>がらんさん

解読及び情報の提供ありがとうございます。
タイトル及びタグを修正しました。
garan
こちらも
・青竜軒碑 (鈴木芳清、号青龍軒、通称茂平) 明治41 凹山英熙識・篆額 荻原元良書
凹山は豊川財賀寺住職三宅英熙、荻原元良は祝田村の医家だそうです。
鈴木青龍軒は不詳。武を嗜み講じ、拳法・刀法・棍法を学んでその動き電光石火、明治33年83歳で亡くなったようなことが碑文に記してあります。
garan
こちらもおじゃま
青竜軒碑 (鈴木芳清、号青龍軒 通称茂平、武術家)明治41 凹山英熙識・篆 萩原元良書
凹山は豊川財賀寺住職三宅英熙。書の荻原元良は祝田村の医家だそうです。
青龍軒のことはわかりません。碑文に拳法・刀法・棍法などを学んで明治33年に83歳で亡くなったようなことが書いてあります。
親マップ: 青竜軒碑 by winecolor
garan
winecolorさま おはようございます

そこらまて 神馬曳出す 若葉かな  竹交
明治十八年五月建  鈴木角平 翠塢□政家書

人物についてはちとわかりません。ググると旧市街に鈴木角平酒店というのがあるのであるいは関係あるのかも。字を書いた人のせ姓あたる部分がよくわかりません。堀とか根に見えるんだが根とすれば利根翠塢がヒットしましたが、その人の傳も不明です。
garan
愛知縣知事從四位勲四等江木千之君篆額
刊石頌德、近世之通習矣、然而有道無愧者能幾、如服部君鐵翁、盖其人歟、君諱政嘉、鐵翁其號、称鐵四郎、尾張中島郡三宅村著姓野口政房第四子也、資性鋭敏、頗有才幹、天保八年十月年、二十三出贅、配于同國海西郡荷之上村里豪服部弥兵衛季女、分立一家、嘉永之初、開塾授徒讀書習字執贄、而及門者前後二百有餘人、而内則撫子弟、外攝理郷村公事、拮据有功、藩公特許冠姓帶刀、以酬勞、當時往往年穀不稔、君屢施錢粒、賑窮氓、官爲賜者奨之物數次、君之平生、亦足以想見焉、君以明治七年五月三日歿、距生文化十二年八月、享年六十、頃者其門人故舊、謀勒君事蹟於石以傳後、屬余撰文、余與君之令嗣高次郎、有交誼、不得辞、故叙其概略如此、     擔風學人服部轍撰
 明治卅一年歳在戊戌晩秋 桑名佐治爲善書
              石工根來市藏
winecolor
ほとんど読めません。
garan
大姉父於宮忠門卿於西景長性質直機敏如
流星將雄似崩石少崇佛乘經譚録説聞而弗
置嘗喪卿毓嗣嗣英年僅志學不堪家務自攝
事撿身服勞是繇恐其風之墜圖其業之永也
英長治産於此締亭於第之乾退閒十餘祀于
茲今載寶暦癸未之春有□恙醫藥卒無驗巳
使英候胗英曰樂只常□自不悦曰我始知其
不起啻待行□耳况死生無別唯是不生不滅
英曰安住此不生滅何待之有次日請師決末
後之事師曰開不生不滅能□纔擧念早是生
□大姉□頭合掌致敬自爾兪兪言笑如常毫
□所惱乃召英慇諸婘爲訣泊然而悦宲五月
二十八日也享年五十有九卒□於斯事猶棄
□□其眞必矣所謂聞而弗置者不然耶因識
寶暦十三癸未秋 本寺第六代中百靈撰
garan
【西河海荘墓碑】
菊莊名景瑛字子發尾張名護屋人淺井明義之子也年十□
鳥地西河景長子□□子發事翁媼姑所生慈斈俱至幼時從
彌勒寺荊巖和尚讀書又師事柗平君山先生能詩嘗之京師
詣東福寺會諸人賦詩子發預坐頃之得九宮律乙篇有驚句
衆時愧服就佚山黙隠師學画後佚山遊尾張寓于子發累句
鳥地有画人自景□□寶暦中修水利江戸大久保執法監其
事館子發之□□□□驩之謂曰我號左龍汝宜號右龍其愛
子發如此鳥地有子女曾與者子發爲之作傳鐫刻行于世志
水夫君嘉之賜服褒之蓋異數也娶宮崎氏亦好詩画生三子
長景伯次菊延次景保子發夙有遯志中年傳産業於景伯不
□關世務築亭田間曰無爲更構騰雲臺日招郷里子弟授句
讀教書法凡八年所箸有菊莊集寛政六年甲寅八月十六日
以疾終年六十一先是夢中得句覺後足成之曰菊莊元是在
□班偶住仁□駐客顔廣問逍遥何處去白雲湖上□□□是
爲□□葬於鳥地彌勒寺境内矣門人數半與景伯謀立石□
上戮□輸金以助費索銘於余銘曰菊莊為人和易□□□生
所□在□巽酒□朝□□去□□□石上勒銘□□不□
寛政六年冬日     田挺□撰   沙門良□書
親マップ: 西河菊莊の墓 by がらん
garan
地主 
佐野玄入居士者、本勢刕鈴[鹿郡富]田村之生、縁三十餘歳、而來開發地[於]尾州海西郡鳥ヶ地新田、以事農家人也、世壽八十二歳、元禄八年十月廿九日而逝、
西川善祐居士者、當國海東郡福田村之生、縁中年而開發地於海西郡生鳥ヶ地新田、以事農家人也、世壽八十三歳、元禄十一年四月十日而逝、
于茲、尾刕海西郡鳥ヶ地之住人孝子、各爲内父菩提造立是石碑、可謂厚志至誠者也、于時元禄十六年癸未之春、同村龍華山彌勒禪寺現住比丘密天叟欽誌

孝子 西川氏無□
   [佐野氏□]忠 忠重 忠廣 忠吉 忠光
garan
蕭林秋颯居士
大然知公大姉
行恭休節居士
圓窓静閑大師
節山貞高大姉
法喜禪悦童子
順正院皓月俊貞大姉
悦山可蘙童女

宮氏合祀碑陰記
尾張海西郡鳥箇地新田有佐野氏、世爲富家、忠基者有季子、曰文忠、字春助、因其父所出、改爲宮崎氏、爲儒入京亡葬于禪林寺域、有子宮奇、字子常、又字常進、號筠圃、先生以儒著於當世、語詳於其碑、筠圃娶入谷氏、擧男早歿、又娶飛森氏、生女名延、事臺閣久我源公後閤、以文化十年四月廿三日亡、佐野忠興傷其宮氏無嗣、兆域隔絶、遂建此碑于舊塋、以共香火云、属記於余、余以爲昔陳師道爲甄氏記、思亭曰、服盡則情盡、情盡則忘之去、佐野氏於宮崎氏其可忘乎、然至於後世、情盡而、□固□□□、視此碑思之則、其可忘乎、忠興□□可謂仁矣、遂録斯言、爲記、
文化十一年暮春  尾張藤益根
garan
島村志津摩の碑文
【篆額】濟勤
【本文】
前豐以険聞者、金嶺居其一、慶應丙寅之役、我小倉藩老臣嶋村君、拠以防敵焉、初幕府征長州、以我藩為西面先鋒、戰干田浦、大里、鳥越等處、既而將軍薨、鎮西諸藩、従征在境内者、皆遽解去、監軍使夜遁、我兵孤危、幾乎將潰、君慨然勵衆、死守此地、與狸坂兵、相成掎角、以塞敵南出之衝、於是兵気復振、君諱貫倫、剛果鋭勇、胆略過人、此役、将先鋒第一隊、大小數十戰、立干彈丸雨注之間、從容指揮進退不失其節、士卒悦服、樂爲之用、故能以善戰著、後以病歿、士民追慕、欲建碑傳其事遠、請余文、余嘗與君親善。又喜郷人有此擧、遂書碑刻之、
明治十九年丙戌冬十一月    吉雄敦撰並書
winecolor
碑という名称になっていますが、実質はモニュメントです。
winecolor
>がらんさん

画像の登録ありがとうございます。
親マップ: 小桜の塔 by winecolor
garan
篆額の「産」の字は「文」+「隹」のように見えて読みづらい。「厂」を「生」の竪画が突き抜けてまた「生」の一画目が略されているのが原因で誤字っぽい。
garan
winecolor さま おはようございます
 去年の二月に訪問した時の画像です。時間がなかったので夜中の探索(-_-;)
親マップ: 小桜の塔 by winecolor
garan
碑陰;
明治四年、我沖繩縣舊藩民漂到臺灣、遭害者五十四人、越五年
朝廷詔海陸諸軍征間其財兇賊迎降、乃拾収遺骸、齎歸葬之若狭町上之毛、而墓地偏僻不便、於是有志相謀醵資移之護國寺之域、建石表之、余因叙其略云、
 明治三十一年三月 
  沖繩縣知事従四位勲四等男爵奈良原繁誌
台座;台湾遭害者名(列名)
garan
 2016.2訪琉時に付近を徘徊したものの見つからず。沖縄戦にも被災しなかった数少ない古碑の一つでした。個人の敷地内にあるそうです。
http://van2.blog14.fc2.com/blog-entr...
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/p...
なると4
がらんさま

ありがとうございます。
検索してみると「妙」が正解のようですネ。
garan
なると4さま おはようございます
元画像からでも判断しかねるんですが、白山明神(權現)は「妙理大菩薩」という名乗りもあるそうです。ご参考までに
https://ja.wikipedia.org/wiki/白山権現
garan
(水盤銘文)
乃木將軍及夫人之薨、來拝墓者士女成群、爭奉榊、枝供香花、薦錢幣、香火恐爲災、錢亦無所用、乃掲榜謝止二物、而堆積之錢、已有數十圓、會軍艦津輕號下士卒三百四十人集金十有八圓、以見贈露國貨五留、米國桑港婦人某氏又寄以其國幣五弗、其金總至七十四圓五十錢有奇、蓋中外人士感嘆金欽望之深、至此已然將軍高潔廉介、一豪不取於人、未知神靈、果受之否也、而斥還之亦不可、於是乎湯地・塚田・大館・玉木諸氏相議、以其財、造石盤一基、置諸墓側、以供衆人洗手之用、庶幾不虚諸君至意、而神靈亦不必拒斥也、
大正二年五月十三日 湯目補隆謹識
winecolor
民家の建物は天狗の面の長屋門も含めて撤去されていました。
winecolor
リニューアルされていました。
親マップ: 地蔵坐像 by winecolor
なると4
44-大寶寺-御影(2017/6/3)44-大寶寺-朱印(2017/6/3)45-岩屋寺-御影(2017/6/3)45-岩屋寺-朱印(2017/6/3)
2017/6/3に、44番 大寶寺、45番 岩屋寺を参拝しました。
2014/8/23に始めてから2年でやっと半分です。
この調子でいくと後2年かかりますネ。(笑
なると4
なると4
刻まれた文字は「白山仙理大菩薩」でしょうか?

元画像
https://photos.google.com/share/AF1Q...
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