コメント一覧

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garan
盤谷妻富田氏墓銘
【表題】
蓮心院香光貞嚴大姉
【本文背面】
亡妻諱阿民、冨田元保之女也、以明和六年己丑五月十二日己亥生、天明五年乙巳二月廿日以適余、以六年丙午四月九日未刻生女、名阿歌、夭、以七年丁未八月廿五日辰刻、生男名八百枝、寛政四年壬子六月十六日以病卒、年二十四、越十八日葬于先墓之次、銘曰、
 性質従順 言不出閾 克事舅姑 克共婦職 宛其死矣 爲我心惻 于以爲銘 貞珉是勒
寛政四年壬子七月十八日乙卯、熊阪定秀撰并書
garan
頼山陽筆『熊阪斗南墓碑』釋文
【表題】
熊阪達夫之墓
【銘文】
此陸奥人熊阪達夫墓也、達夫祖父曰台州先生、世居州之伊達郡高子村、及先生好學、郷里仰其德被其膏澤、名聞四方、其子君實、善繼先志、弗墜家聲、娶某氏生達夫、々々諱懿、通稱八百枝、亦能讀書、有才氣、少有疾、漫遊寓京師、病甚死焉、享年四十又二、爲文政戊子冬十一月四日、葬于下寺町荘嚴寺内、經紀其事者爲中川殷玄、嘗行商奥地、於熊阪氏有累世之誼、謂台州先生之德、而其孫客死千五百里外、其葬處不可不表識之、使郷人或來展者、認而不疑也、請余表其墓、余素聞台州先生之名、又嘉中川生之擧、略叙其由如此、
文政己丑春三月、山陽頼襄識
garan
おはようございます
ふもとの《想古亭げんない》の客室のふすまにこの碑の古拓が装丁されているようです。タグ貼らせていただきました。
【篆額】賤嶽戰趾碑 【碑文】賤嶽戦趾碑 (本文) 明治11 滋賀縣令籠手田安定撰 宮内大輔杉孫七郎篆額 滋賀県一等屬齋藤真男書
https://www.google.com/maps/@35.5052...
なると4
46-浄瑠璃寺-御姿(2017/7/15)46-浄瑠璃寺-朱印(2017/7/15)47-八坂寺-御姿(2017/7/15)47-八坂寺-朱印(2017/7/15)48-西林-御姿(2017/7/15)48-西林-朱印(2017/7/15)49-浄土寺-御姿(2017/7/15)49-浄土寺-朱印(2017/7/15)50-繁多寺-御姿(2017/7/15)50-繁多寺-朱印(2017/7/15)
2017/7/15に、46番 浄瑠璃寺、47番 八坂寺、48番 西林寺、49番 浄土寺、50番 繁多寺を参拝しました。
距離が近いため一気に5カ寺回ることができました。
なると4
本堂と大師堂の間に移動しました。
なると4
繁多寺

 四国八十八ケ所五十番札所で、本尊は薬師如来である。
 寺伝によると、孝謙天皇の勅願により、天平勝宝年間(749~756)に僧行基が開創したという。このとき、天皇から数流の旛を賜ったおで「旛多寺」から「繁多寺」と呼ばれるようになり、「畑寺」の地名も生まれたという。
 『一遍聖絵』によると、正応元(1288)年、一遍上人が最後の遊行に出る前に大宝寺や岩屋寺を巡拝して当寺に三日間参籠し、そのとき、亡父如仏の追善のために三部経を奉納した。
 応永元(1394)年、後小松天皇の諭旨を受けて京都の泉湧寺から、当山第七世住職となる快翁宗師が下向し、以後多くの高僧が来往した。盛時には末院が120か寺に及んだという。
 当時の梵鐘は元禄九(1696)年の銘があり、あらゆる階層の人々百人の寄進によって造られた寺宝である。また、徳川将軍家綱の念持仏であったという大聖歓喜天を祀っている。
       
                 松山市教育委員会
なると4
2017/8/14現在は、当日の試合結果や高校野球関連のパネルとなっています。
winecolor
>がらんさん

解読していただきありがとうございます。
ネットで調べたら次のように出ていました。

木村 敏(きむら びん)
 明治35年、兵庫県出身。彫刻家。日大芸術科中退。小倉右一門下。
 二科会会員・評議員。賞3、個展4ほか。

タグを修正しました。
garan
おはようございます
「木村敏 造之 1964」とあるようです
winecolor
生まれ故郷の福島県の学校なら分かるのですが、
http://hizou.30maps.com/map/34095
愛媛県の学校にこの像以外にも野口英世像があるのは不思議です。
http://hizou.30maps.com/map/9722
http://hizou.30maps.com/map/151899
http://hizou.30maps.com/map/182167

もしかしたら、二宮金次郎ほどではないにしろ、全国各地の学校に野口英世像があるのかもしれません。
親マップ: 野口英世像 by winecolor
winecolor
制作者はネット検索でヒットしませんでしたので、もしかしたら読み間違えているかもしれません。
garan
堕落之魂さま おはようございます。
DEEPなところをチェックしてますね。画像貼りました。
winecolor
手前の木が邪魔をして、パノラマ図通りには見えませんでした。
winecolor
坂道(スロープ)坂道(階段)
最初はスロープ、途中から階段の坂道が頂上まで続いているので、
杖があったら楽です。
親マップ: 杖使用案内板 by winecolor
winecolor
>なると4さん

位置の移動ありがとうございます。
winecolor
>脾臓さん

位置の移動ありがとうございます。
現在の位置に移動させました。背景が違うのでおそらく引っ越したのだと思います。
なると4
がらんさん

ありがとうございます。
「満」ですか。どおりで「雨」では見つかりませんでした。
garan
おはようございます
「満」の異体字ですね。記念も明治の終りから戦前は紀念と書くことが多いですね。「圓滿(円満)坊合寺紀念」
なると4
建物裏ではなく横でしたので、場所を移動しました。
親マップ: 浄土寺六地蔵 by DEARALG
なると4
場所を本堂と大師堂の間に移動しました。
なると4
霜月の空也は骨に生きにける
  正岡 子規 (1867-1902 慶応3年-明治35年)

 明治29年12月3日刊の雑誌「太陽」に載った冬の句で『寒山落木』第五巻にのる。空也(903-972)(延喜3年-天禄3年)は阿弥陀聖ともいわれ、三年間、浄土寺に立ち止まったとも。「骨に生きる」とは、「空也の肉体は白骨となっても、人々の胸には念仏のお添えが今も生きている」の意。
 句碑の文字は前高野山管長森寛紹大僧正の筆で、「白象」と号した。境内には白象の句碑も建立されている。


お遍路や杖を大師とたのみつゝ
  森 白象 (1989-1994 明治33年-平成6年)

 森白象は温泉郡重信町(現東温市)出身。高浜虚子に師事した。


               松山市教育委員会
         『俳句の里 松山』
なると4
二文字目の文字は?
なると4
浄土寺
 四国八十八か所の四十九番札所である。西林山三蔵院と号し、本尊は釈迦如来である。
 寺伝によると、天平年間(729~749)、僧慧明が創建し、孝謙天皇の勅願所となったという。天徳四(960)年、僧空也が諸国遍歴の途中、三年ほど滞在し、自刻の木造を遺したと伝えられる。建久三(1192)には、源頼朝が、伊予の豪族河野通信ともども家門の繁栄を祈り、堂塔の修理に力を与えている。境内に六六坊の末寺を有する巨刹だったが、応永二三(1416)年、兵火で堂宇をことごとく焼失し、文明一六(1484)年に河野通宣が再建して寺の景観は旧に復した。その後、室町時代末期の兵火、更にまた、慶弔五(1600)年には河野氏の残党が毛利軍とともに久米で戦った「久米の役」によって衰幣したが、その後、法印宥雄がこの寺の再興に尽くしたという。
         松山市教育委員会
なると4
日本遺産「四国遍路」 四国霊場第49番札所 浄土寺 Jodoji

 弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1,400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、1200年を超えて発展継承され、今なお人々により継続的に行われている。地域住民の温かい「お接待」を受けながら、国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語るストーリーの1つとして、日本遺産に認定された。
 第49番札所の浄土寺は、西林山三蔵院と号する真言宗寺院で、本尊は釈迦如来。孝謙天皇の勅願によって行基が創建し、民間浄土教の始祖とされる空也上人が滞在したと伝える。中世には河野氏の保護を受け栄えた。
親マップ: 日本遺産 by なると4
なると4
日本遺産「四国遍路」 四国霊場第48番札所 西林寺 Sairinji

 弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1,400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、1200年を超えて発展継承され、今なお人々により継続的に行われている。地域住民の温かい「お接待」を受けながら、国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語るストーリーの1つとして、日本遺産に認定された。
 第48番札所の西林寺は、清滝山(せいりゅうざん)安養院と号する真言宗寺院で、本尊は十一面観音。寺伝によれば、もとは徳威の里という地にあったが、大同2年(807)に弘法大師が当地に移したという。
なると4
秋風や
 高井のていれぎ三津の鯛
   正岡 子規 (1867-1902 慶応3年-明治35年)

 この句は明治28年の作で、「故郷の蓴鱸(じゅんろ)くひたしといひし人もありとか」と前書きしてこの句がある。「蓴鱸」は「蓴羮・鱸膾(じゅんこう・ろかい)」の略で、「じゅんさい(蓴)の吸物と、すずき(鱸)のなます」のこと。昔、中国の晋の張翰(ちょうかん)が、秋風が吹きはじめると、故郷のこの料理が食べたくて退官して郷里に帰った故事による言葉。子規の望郷の心があふれている。子規自筆。昭和38年10月建立。

          松山市教育委員会
    『俳句の里 松山』
garan
いひかわさま ごぶさたです。
 『桑名市史』補篇に碑文が出てるんですが、その場所「諸戸東方山荘」を捜索していたところ、この頃徳成邸の土地売却のことを知りました。特別公開にも間に合わず。残念なことをしました。名碑だと思うんですが墓所が残るとしても整理されれば碑もどうなるかはわかりません。
 長嶋城に依った願正寺証意を、元亀二年に信長が攻めたときに、諸戸の祖定直が城中の戸板を集めて城を守ったことから、証意より「諸戸」姓を賜ったこと、同年の総攻めの時願正寺遺孫を守って大坂の石山へ逃れたことなどが顕彰されています。
 同書により藩儒秋山家の墓所を訪問した時には、秋山家の墓所はありましたが銘文のあった墓石はすでに萬靈塔の一部と化していました。嗚呼。
親マップ: 諸戸定直の碑 by がらん
なると4
          ふしあわせ
お偏路の誰もが持てる不仕合
      もり はくしょう
       森   白象  (1899-1994 明治32年-平成6年)

本名 寛紹。明治32年、温泉郡重信町(現東温市)生まれ。元高野山真言宗管長・高野山真言宗本山金剛峰寺第406世座主。平成6年、95歳で遷化。
 昭和2年、日本文学夏期大学が高野山で開催されたとき、講師として招かれていたのが高浜虚子で、それが縁となり虚子に師事することになる。
 この句は、白象の三男が亡くなり、遺骨を携え四国巡礼に出たとき、遍路の心にはそれぞれの思いと影があることを思い詠んだもの。

             松山市教育委員会
   『俳句の里 松山』
なると4
八坂寺
 
 四国八十八か所の四十八番札所である。熊野山妙見院と号し、真言宗醍醐派の寺院である。
 寺伝によると、600年代に修験道の開祖役行者小角が開山、大宝元(701)年に文武天皇の勅願所として小千(越智)伊予守玉興が七堂伽藍を建てたという。
 中世には、紀伊国(和歌山県)から熊野十二所権現が勧請され、熊野山八王寺と呼ばれるようになった。七堂伽藍はじめ12の宿坊、48の末寺を持つ大寺院で、修験道の根本道場として栄え、隆盛を極めたという。戦国時代に兵火のため堂宇が灰燼に帰し、後に再興して今の地に移ったと伝えられる。この寺は、修験道のため、住職は代々八坂家の世襲であり、百数十代になるという。
 本尊は、阿弥陀如来坐像(愛媛県指定有形文化財)で鎌倉時代の恵心僧都源信の作と伝えられる。
          
           松山市教育委員会
なると4
宝篋印塔  一基
         松山市指定有形文化財(建造物)
         昭和43年10月25日指定

 過去、現在、未来にわたる諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養等を宝篋印塔という。石造塔中、五輪塔とともに普遍的なものである。
 宝篋印塔は、平安時代末期から造立され、基礎(基台)・塔身・笠・相輪からなり、方柱の部分が宝である陀羅尼経を納める篋の塔身である。
 本塔は塔高190センチメートルで、石質は花崗岩である。
 笠の四隅の隅飾突起は直立ぎみであり、造立紀年銘を欠くが、像容、製作技法などが鎌倉様式であるので、鎌倉時代末期と推定している。

        松山市教育委員会
なると4
日本遺産 「四国遍路」 四国霊場第47番札所 岩本寺 Yasakaji

 弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1,400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、
1200年を超えて発展継承され、今なお人々により継続的に行われている。地域住民の温かい「お接待」を受けながら、
国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語
るストーリーの1つとして、日本遺産に認定された。
 第47番札所の八坂寺は熊野山妙見院と号する真言宗寺院で、本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば文武天皇の勅願によって伊予国の越智玉興が創建し、のちに弘法大師が再興したという。かつては修験道の道場として栄えた。
いちかわ
これ、徳成邸内にあるんですか!私は二回くらいしか敷地内に入ったことないです。しかも、墓所には近寄れなかったような記憶があります。

徳成邸は本当に残念なことになりそうですが、墓所は残されるとか…。
親マップ: 諸戸定直の碑 by がらん
なると4
winecolorさん へ

了解しました。
いつになるかはわかりませんが(笑
貞光方面に行くときに確認してみます。
親マップ: 真鍋勝像 by winecolor
winecolor
>なると4さん

真鍋勝像を撮影したのは20年近く前ですので、SVで建立場所を確認していたところ、
国道192号線の徳島県立つるぎ高校グラウンド入り口に別の偉人像(氏名不詳)を見つけました。
もし近くに行かれることがありましたら、ぜひ確認撮影の上ご登録下さい。
https://www.google.com/maps/place/徳島...
親マップ: 真鍋勝像 by winecolor
garan
紅楓瀑布之碑
手向山在奈良東、崇祀八幡神、山富紅楓、其勝著稱海内、山中又有清泉、社司上司廷絃君與氏子總代某等、謀引而墜之崖、球璣迸散淙然有聲、甃石受之、潴為小池、宛如天造、因名曰紅楓瀑、昔者菅公嘗來、賽於神祠、有歌詠、世人傳誦此山之勝遂顯於千古、令君剏此瀑、更増其勝概、則後世或追跡菅公再發揚其勝、又未可知姑記以竢之、系以蕪詞曰、
手向之山兮、夙名紅楓、山不甚高兮、祠宇巍崇、紅楓之瀑兮、近歳竣工、瀑不甚大兮、飛泉清雄、菅公一去幾星紀、遺咏今古罔與此、節入高秋霜深山、雪簾光映蜀錦美、吾嘗住南都、暇時著謝屐樹、老鳥聲深境幽塵俗隔、頃來移寓東京城、追懐勝景難忘情、他年會當遂歸計、半畝茅屋茲經營、醒目乎山坡燦爛之色、洗耳乎瀑流潺淙之聲、
明治二十七年莫之秋 華族女學校教授正八位土屋弘譔
               正八位大國有壽 書
親マップ: 紅楓瀑の碑 by がらん
garan
 養老瀑泉詩歌碑
粤有山翁貧嗜飲 常思縦酔一厭然
婦営紡績供衣食 子務樵蘇要酒銭
貞節絶倫驚上世 孝誠出類感旻天
夢中鷲卵化金玉 巌下神靈涌醴泉
日々把盃懐巳足 時時浴躰病皆痊
從容共嘯旧棲月 返少遂成陸地仙
皇帝幸臨称瑞物 國家大赦改元年
爾來養老流無尽 水性及今施徳全
聞人や 袖ぬらすらん たらちねの 
老を養ふ瀧のむかしを なる神の 
音かと聞けば 多度山の 雲にとゝろく 
たきつ岩なみ 
元文丙辰夷則上浣 
 濃之芸縣押越村道順謹銘
garan
「渋谷代衛君紀功碑銘」釋文
従二位勲四等侯爵徳川義礼篆額
渋谷代衛君紀功碑銘
東京高等師範学校教授従六位勲六等 渋谷啓撰
美濃著姓、渋谷代衞君、既歿之七年二月、朝廷腸銀盃一個於家、賞其遺功、於是其子豊之助、具状至啓舅谷如意翁泣請曰、郷人将為先考勒石於養老公園以伝不朽、願先生為之文、舅以耋老辞命、啓代之謹按君之功、可紀者有三、曰設郷校也、曰開公園、曰施防水工事也、君旧多芸郡大野邨人、家世里正、初 朝廷頒学制、君首捐別邸、充校舎、雇師教、児童数十名、給書籍筆紙、庀器用者年、邨民頼恵、養老勝蹟荒穢日久、大官某氏嘗来遊慨之、勧県令修治、県令謀之君等、君唱導同志醵金購地、新闢坦途、構楼其上、雑植桜楓、以為溝息之処、設法永存、郡之地形以牧田川分南北、其南則除多度山麓高原、揖斐津屋両川東西夾之、金草川横亘其間、合流牧田川、外環以大堤、号曰多芸輪中、而輪中又分為数区、多築小堤以備大堤潰決、其費皆出于邨民、封建世、公邑藩封犬牙相錯、賦課軽重失宜、土功議多阻不行、明治中興百度釐革、君以為不及此時、改旧慣和同共済尽力大堤、則不能竟免昏墊之害也、乃巡遊諸村、歴説耆老、皆頑然不応、君百方暁諭、久而後悟、請県創水利土功会、謀期十年修築、毎歳議決
先其要衝、漸次及余、遂得竣功、十七年夏木曽長良揖斐三川暴漲、各郡変為一大湖、県令大憂之、将上京請政府救済、率君同行、君詣諸要職訴災民窮状、辞旨悃惻、政府為発金数万円賑之、盖君為人温厚勇于義、事親孝、家
門雍穆、僮僕訢訢如也、郷党有争訟数年不決者、籍君一言而解、以故特為名古屋大垣両藩主所優遇、前後捐私財五万円、晩年得病荏再不愈、又遭大震壊屋、乃集餘材再築、卑陋僅蔽風雨、名曰弥縫庵、取国音与貧乏相近也、
及歿嘱家人曰、我私謀利世、為家産其愧于祖先、我死汝等必薄葬、勿使重得罪矣、遠近聞者無不痛惜焉、君諱政貞、号枕江、考代右衞門妣中島氏、以文政七年三月二十五日生、明治二十九年八月十八日歿、寿七十三、葬邨之
覚林寺塋域、配宇佐美氏生十一子、男豊之助理兵衞孝次、理兵衞承家、豊之助孝次竝出為人、後三女皆嫁、餘夭、啓辱列宗末、夙欽君功、又感袞褒之恩、乃承舅意而叙之、且係以銘曰
多度之山  神瀵涌焉  翠華曾幸
嘉瑞紀年  君謀復勝  乃治乃宜
卉木改色  林巒加妍  教我子弟
阪我河川  利民済物  厥徳無愆
豊碑屹立  在彼山巓  石或可勒
盛名不騫
明治三十六年三月 
    正五位 日下部東作書

碑陰:
明黨年来懐徳恵 雰気身後賜恩褒 
斯翁功績将何比 養老之山千古高
近江族姓 四位 谷銕臣題
なると4
浄瑠璃寺(愛媛県松山市浄瑠璃町)2017/7/15浄瑠璃寺(愛媛県松山市浄瑠璃町)2017/7/15浄瑠璃寺(愛媛県松山市浄瑠璃町)2017/7/15
一願弁天の左奥に蓮池がありました。
シオカラトンボが蓮の蕾に止まっているところが撮影できました。
なると4
浄瑠璃寺
 四国八十八か所の四十六番札所である。寺名は、医王山浄瑠璃寺、本尊は薬師如来である。寺伝によると、和銅元(708)年、僧行基が開山、自ら白檀の木で本尊をつくったという。
 室町時代末期、荏原城主の平岡通倚が病に苦しみ、この寺の本尊に祈願し、まもなく全快したため、土地を寄進して堂宇を建立し、深く帰依したと伝えられる。その後、正徳五(1715)年に山火事で建物、本尊すべてが消失したという。
 江戸時代中期、この村の庄屋井口家から仏門に入り、当寺の住職になった堯音(1733~1820)が寺を再興したと伝えられている。堯音は、久万からの遍路道が、毎年のように出水時に流され、人々が難儀していることを知り、七六歳で托鉢僧となった。各地を回り喜捨を集めた堯音は、岩屋寺あたりから順に川に橋をかけ、最後に立花橋をかけた。今も、丹波橋、出口橋など、堯音がかけた八本の橋の幾つかが伝えられている。

松山市教育委員会
なると4
塔には「生きとし生けるもの命永〇〇〇らかに」と刻まれています。
説明柱には「あらゆる生物の慰霊と存続を祈る おん かかかび さんまえい そわか」とあります。
※真言は、地蔵菩薩のものです。
なると4
説明柱には「仏手花判 ほとけの指紋 なでて心身堅固文筆達成成功を念ず」とあります。
なると4
説明書きには
「おしゃかさまが説法され修行されたインド霊鷲山の石が埋めこんであります。中央のもようの中」
とあります。
なると4
説明書きに「ハダシで踏みなさい」とあいます。
なると4
横の説明柱には「高く知恵の燈を掲げて あなたの人生を照らします」とあります。
なると4
石の上部にはお釈迦様の手形があります。
横の柱には「あらゆる文化を造り出す手に感謝…」とあります。
なると4
イブキ 三本
       松山市指定天然記念物
       昭和43年10月25日指定
 地名、イブキ。ヒノキ科ビャクシン属の植物で別名イブキビャクシンよばれ多くの品種・変種がある。福島県以南の海岸地方や島に多く自生しており、園芸品種が多く、公園・庭園に植栽されることも多い。
 この境内にも三本のイブキの大木がある。これらの大きさは、それぞれ胸高幹周4.8メートル、3.5メートル、3.3メートルあり、高さは約20メートルあって、樹齢は1000年くらいといわれている。残りの二本は本堂裏にある。
 このほか、市内では上野町大宮八幡宮内に金平狸が住みついていたという伝説で有名な幹周5.2メートルもあるイブキがある。

       松山市教育委員会
なると4
薬師如来は九横(九つの災難)を救う
一、不治の病の患る
二、暴力非行に会う
三、淫酒に耽れる
四、火熱傷をおう
五、水難にあう
六、獣蛇に咬まれる
七、崖から転落する
八、毒呪に中る
九、渇き飢える
winecolor
>がらんさん

ご指摘ありがとうございます。
タイトルを修正しました。
親マップ: 平井老農之碑 by winecolor
garan
「老農」ですね。
親マップ: 平井老農之碑 by winecolor
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