矢野翁碑

winecolor | 2014/3/20 00:03
写真登録: winecolor
矢野玄道
文政6年-明治20年(1823-1887)
国学者
http://hizou.30maps.com/map/30670

明治27年(1894)建立

〔表碑文内容〕

我國體之隆  皇謨之宏超絶于萬國而世人未知其所以然也自荷田大人以古學提唱後進岡部本居平田三大人相踵
輩出益闡明大義匡正名分於是  神聖之道赫然昭著如聞雲霧而掲明日緒論之所啓發其於明治中興之績亦与有功
焉未幾西學侵染人心捨本超未國風曰漓而屹立不動以益明斯道者獨於善矢野先生見之矣先生名玄道稱茂太郎伊
豫國喜多郡人也姓平考名道正世仕大洲藩妣檜田氏以文政六年十一月生先生先生幼頴悟夙成九歳渉猟経史五行
並下人稱爲神童弘化中入昌平黌先是先生繼乃父之志師平田大人常以明皇道爲己任後僑居京師輦下固多志士又
聞先生風而益興矣慶應初幕府疾先生与志士交捕之將斬適有救者獲免三年冬十月天降符洽于都鄙世人大怪之先
生獨喜曰是  皇政復古之兆也至十二月  朝廷果収復大權尋下  詔諮問國是議者多欲醵元弘制時先生与玉松真
琴爲岩倉右府幕賓倶建議曰  天祖遺範儼然具存何用元弘爲右府嘉之先生又上策廟議大定先是先生与平田鐡胤 
建議曰昔  崇徳帝崩于海島含恨萬世其後天下大亂苟迎之於京師而奉祀爲則反亂自平矣朝議納之迎  神靈于讃
岐既而賊果平先生之議盖成先師之志也乃爲徴士拝神祇官書記辭不就爲内國事務權判事編次大學制規与平田玉
松二氏共任皇學所講官公郷交延爲門客又爲有栖川仁和寺華頂三親王侍講拝大學中博士叙從六位後歴仕修史局
宮内省圖書寮諸職皆非其志也爲人静雅恬澹不事名利超然神往于薼表居恒尊  皇室敬  神祇言行純實謙而有禮
其志存于報國事渉大義則危言侃侃雖權貴不避深憂皇道之末隆上書屡陳   神聖建國肇基之大要言不用乃益發憤
立言以匡濟世道其書神典翼皇典翼䓁凡七百餘巻皆彰  神聖之宏謨者也教育子弟前後一千餘人齒徳並髙學者推
以爲泰斗嘗續修古史傳明治十九年九月書成故舊又請續古史成文先生曰是吾志也顧老母在郷齢既越八十吾亦不
欲埋骨於佗郷也十一月歸郷踰月丁母憂明年三月先生患胃自知不起呼弟幸男嘱以後事又謂曰我□愛水玉吾死當
留我靈汝曹祭之五月十九日復謂弟曰今日吾逝矣請行遷靈式弟乃作書報族人子弟皆來會先生辭氣如平曰衆甚異
之且從命行式式将畢拍手之間而溘焉逝殆所謂至誠前知者乎享年六十五塟于當葉社之先塋學友私諡曰稜威道別
彦命嗚呼先生之學善繼四大人之志以闡明大道其赫然昭著者将益明于萬世之下也其切亦豈在四大人之下山□
明治二十七年甲午五月
陸軍大将大勲位小松宮彰仁親王額  樞密顧問官從二位勲一等伯爵副島種臣撰  正四位勲三等巌谷修書
愛媛県 大洲市 阿蔵 230
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コメント (4)

winecolor
碑文(上)碑文(中)碑文(下)
この石碑は建立してから100年以上たっていますが、屋根があったお蔭か摩耗も少なく、表碑文のほとんどは読めました。
ただ、それでも読めない箇所はありましたし、読み間違いも多々あると思います。
そこで過去の例に倣い、拡大した碑文を上中下に分けてアップしました。
garan
読んでみました。異体字に読み違いがあるようです。
きれいな画像ですが見えないところは見えないなあ。歌は達筆過ぎてよくわからん。句読はだいたいです。
添付ファイル説明サイズ
矢野玄道.rtf18kb
winecolor
>がらんさん

解読をしていただき、ありがとうございます。
添付ファイルでご指摘のあった読み違い箇所は修正致しました。

今後とも宜しくお願いします。
garan
歌も読んでみましたが??だらけです
・かむろきのかみのみことの
 み勅をおきてミ勅に布
 ものはよに厚きものを
神漏岐の 神の尊の 御勅を おきて 御勅に布(しく)ものは 世に厚きものを