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なると4
足摺岬 Ashizuri Cape
 東の室戸岬と向かい合う四国最南端の岬。岬端は80mの海食断崖がそびえ、その西の白山神社の下にある白山洞門は花崗岩の海食洞門としては日本一といわれている。また、岬には代表的な亜熱帯植物であるビロー樹が自生するほか、2月には早くも花が咲きほころぶ椿林のトンネル、四国霊場38番札所・金剛福寺など自然と歴史文化が今なお豊かに息づいている。

ジョン万次郎 John Manjiro
 中浜万次郎(ジョン・万次郎1827.1.1~1898.11.15)。近代日本初の国際人。中ノ浜出身。1841年漁中に遭難するが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号のウイリアム・H・ホイットフィールド船長に助けられ、船長の生地フェアヘーブンで学校教育をうけるとともに見聞を広める。1851年帰国後、その国際知識をかわれて幕府直参となり、1860年には遣米使節の一員に加えられるなど、開国に向けて大役を果たす。そして1898年71歳の生涯を閉じるが、広い視野に立ち、日米交流の礎を築いた万次郎の功績は、国際化時代の今日ますます意義深いものとなっている。また、土佐清水市は1987年12月、万次郎の縁でマサチューセッツ州フェアヘーブン、ニューベッドフォードと姉妹都市を結び友好交流を深めている。

  土佐清水市  土佐清水市姉妹都市友好協会
親マップ: 説明板 by なると4
なると4
  中浜万次郎 1827-1898
 中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割をはたし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。
 万次郎は、この足摺岬にほど近い沖ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれた。14歳のとき出漁中、嵐にあい遥か南方の無人島、鳥島に吹き流されたが、半年ののち運よく通りかかったアメリカの捕鯨船JohnHowland号に救助された。船長WilliamH.Whitfieldは 万次郎少年の人柄を深く愛して本国につれかえり、3年間正規の学校教育をさずけた。万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第1号となった。彼は10年におよぶ国外生活中JohnMurgと呼ばれ英語、航海術、測量術、捕鯨術等を習得し、二度に亘って七つの海を周航した。
 しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこにのこしてきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰ってきた。
 とき1851年2月、かの黒船の来航にさきだつこと2年であった。このような時機もさいわいして、彼は罪にとわれなかったばかりか、苗字帯刀をゆるされ幕府の直参にとりたてられた。
 これより中浜万次郎は外国事情の講話やアメリカ航海術書とか公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日をおくることになった。洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。日本人による 初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには彼のすぐれた航海術が大きな力となっていた。帰国に際して書籍 写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている。
 明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。44歳のとき、すこしく健康をそこねて公的な活動からしりぞき、数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。
                          1968.7.11
なると4
植物園の概要
 この植物園は、足摺岬の国有林に自生している植物群を中心に自然の森の中に造ったものです。
 面積は1ヘクタールで、現在焼く500種(熱帯花木薬60.亜熱帯花木100.暖温帯花木約200・ヤシ類約20・シダ類約120種類)の植物が植栽されています。
 早春から秋にかけては美しい花も見られ、中には学術的に価値のある植物もありますので、皆さんの学習の場としても利用して頂けます。
 この植物園は、足摺大堂自然給与りんの施設の一つとして、昭和48年5月23日には天皇陛下の行幸を賜ったところであります。
 南国色豊かな自然の憩いの場へお気軽にお立ち寄り下さい。
                        四国森林管理局
                        四万十森林管理局
なると4
足摺岬(高知県土佐清水市足摺岬)2016/7/23足摺岬(高知県土佐清水市足摺岬)2016/7/23
岬の周辺は写真のような遊歩道があり散策できるようになっています。
なると4
 犬塚(犬の墓) 足摺七不思議(十一番)
その昔、お坊様が「この乱世を立て直すため、一国一城の主となり生まれ来たらん」と言い、手の腹に南無阿弥陀仏と書いて握りしめこの断崖から身を投じたという。
そのお坊様を慕っていた一匹の犬が、この場所から動こうともせず、飲まず食わずひたすら待ち続け、ついに息絶えた。村人はその姿を哀れに思い、この場所に犬塚を建てたと言われている。
そののち幾百年が過ぎ、土佐藩は山内家となり二代目忠義公には手の腹に黒い生印があり、その言い伝えを知った忠義公は「自分はそのお坊様の生まれ変わりではないだろうか」と思うようになり、足摺山金剛福寺を深く信仰し度々参拝に訪れている。又、本堂・仁王門・十三重の塔など数多くのものを寄進している。それ以来金剛福寺は山内家と同じ丸に三ツ柏の家紋を頂戴している。
なると4
がらん さんへ

芭蕉の句碑だったんですね。
いつもありがとうございます。
なると4
金剛福寺(高知県土佐清水市足摺岬)2016/7/23金剛福寺(高知県土佐清水市足摺岬)2016/7/23金剛福寺(高知県土佐清水市足摺岬)2016/7/23金剛福寺(高知県土佐清水市足摺岬)2016/7/23金剛福寺(高知県土佐清水市足摺岬)2016/7/23金剛福寺(高知県土佐清水市足摺岬)2016/7/23金剛福寺(高知県土佐清水市足摺岬)2016/7/23金剛福寺(高知県土佐清水市足摺岬)2016/7/23
本堂の周りを仏像が取り囲むように建立されています。
虚空菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩、釈迦如来、地蔵菩薩、不動明王、千手観音、宝生如来
なると4
(説明板内容)
應安八年銘(南北朝初期・
六百年前)の九輪宝塔
は毎年のように襲ふ
台風、潮害のため破損甚だ
しく平成大修理にあたり
この地に建立せるものなり
  工人 摂州堺住 山川ヱ門尉助頼
          他寄進者多数
  当院主     南 慶
  後院主     千寿丸

なると4
(説明板の内容)
大師亀
岬の突端に(亀呼岩)あり
大師、亀を呼び眼前に浮ぶ
不動岩に渡り、修業せりと
伝えられる。 (七不思議の一つ)
徳川中期の道中案内記に
足摺は「ゆるぎの石に亀も浮く」
とあり、お遍路さんは亀を呼び
幸運が来ると喜んだ。
なると4
写真を追加しました。
住所をホームページのものに変更しました。 214-13→214-1

メモ代わりの動画です。
https://youtu.be/Wnpjj65BubQ
なると4
日本遺産 「四国遍路」 四国霊場第38番札所 金剛福寺 Kongofukuji

 弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1,400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、
1200年を超えて発展継承され、今なお人々により継続的に行われている。地域住民の温かい「お接待」を受けながら、
国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語
るストーリーの1つとして、日本遺産に認定された。
 第38番札所の金剛福寺は、蹉跎(さだ)足摺山と号する真言宗寺院で、弘法大師修業の地である足摺岬の
先端に位置する古刹。観世音菩薩の住む補陀洛(ふだらく)浄土への入口の東門とされ、信仰を集める。

※不明な箇所は推測です。
なると4
メモ代わりの動画です。
https://youtu.be/SGwKCSJrfs8
なると4
岩本寺は、天平年間(西暦七百年代)行基菩薩が聖武天皇の勅を奉じて建立したのが起源と伝えられる場所は仁井田大明神(五社)の西方で福円満寺と呼ばれのち弘法大師空海が弘仁年間(西暦八百年代)に当地で修法し藤井山五徳智院と号すると共に四国霊場に加えたその後変遷を経て現在地に藤井山五智院岩本寺として再建し四国霊場第三十七番札所としての寺歴を守り現在に至っている。不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の五体が本尊として伝わっている。本尊が五体あるのは霊場の中でも岩本寺だけである。なかでも観世音菩薩は寺歴の由来から福観音としたわれ、地蔵菩薩は山猟師と身代わりとなって救った伝説から矢負いの地蔵と呼ばれ昔から多くの信仰を集めている。 真言宗智山派

  西暦一九八〇年
  昭和五十五年三月
  窪川町
なると4
 仏足跡とはお釈迦さまの足跡を印したものです
 お釈迦さまが入滅され 現在のような仏像が造られる以前は お釈迦さまの足跡を印し礼拝してきました
 この左足の仏足はインドグプタ朝五世紀の作でもっとも古い仏足跡の摸刻です
 この仏足跡を合掌し 礼拝した手で身体の悪い箇所を撫でると罪障を滅し 諸願を成就するといわれています
なると4
岩本寺(高知県高岡郡四万十町)2016/6/18
修行大師像の向こうに大師堂があります。
大師堂の前の丸い建物は聖天堂です。
なると4
徳島阿波おどり空港(徳島県板野郡松茂町)2015/10/12徳島阿波おどり空港(徳島県板野郡松茂町)2015/10/12徳島阿波おどり空港(徳島県板野郡松茂町)2015/10/12
去年(2015年)のヴァジュラはこちらへ移しておきます。

なると4
徳島阿波おどり空港(徳島県板野郡松茂町)2016/10/2徳島阿波おどり空港(徳島県板野郡松茂町)2016/10/2
今年は「Fate/Grand Order」の「ウィッカーマン」が展示されています。(高さ5m)
空港1F,2Fはこんな写真のような状況です。
なると4
winecolorさん

7月に39番延光寺まで終わりました。
8月は暑いので小休止です。(笑
次は40番観自在寺ですが、自宅からは高速を使っても片道300Km約4時間です。
強行ですが日帰りで行ってこようと思っています。

※写真の整理が溜まる一方です。
なると4
(碑文)
日本遺産 「四国遍路」 四国霊場第37番札所 岩本寺 Iwamotoji

 弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1,400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、
1200年を超えて発展継承され、今なお人々により継続的に行われている。地域住民の温かい「お接待」を受けながら、
国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語
るストーリーの1つとして、日本遺産に認定された。
 第37番札所の岩本寺は真言宗寺院で、本尊は不動明王・聖観音・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩。仁井田明神の
傍らに行基菩薩が寺を開いたことに始まり、後に弘法大師が同明神に五つの社殿を造る際に別当寺としたと伝える。
なると4
(碑文)
日本遺産 「四国遍路」 四国霊場第32番札所 禅師峰寺 zenjibuji

 弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1,400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、
1200年を超えて発展継承され、今なお人々により継続的に行われている。地域住民の温かい「お接待」を受けながら、
国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語
るストーリーの1つとして、日本遺産に認定された。
 第32番札所の禅師峰寺は、鉢葉山と号する真言宗寺院。本尊は十一面観音で、漁師達の信仰を集め、
舟魂(ふなたま)観音ともよばれる。近世には藩主の出帆に際し、必ず舟魂観音に航海安全を祈ったとう。
なると4
住所を岩本寺の3-13に修正しました。
参拝したときの写真を追加しました。
位置を仁王門の上に移動しました。
なると4
流れ星 弧の弛む 〇に届きて  可笑
なると4
 竹の先で耳をすますと、四国山脈の音が聞こえます。
 実はこの音は、水琴窟から出ている音です。
 水琴窟は図のように、大きな壷を地中に埋めた構造となっています。
 表面の水が、この壷に水滴となって落下したときお琴を弾いたときのようなきれいな音がでるしくみです。

なると4
高知で大正から昭和初期に流行した「土佐生気の唄」の2番が武市半平太の辞世の句をもとに作詞されたとの事です。

映すたらいの水かがみ
花は清香人仁義
幽閉何ぞ恥ずべけん
みよ橘は永久に咲く
なると4
浦の内湾(高知県須崎市浦ノ内)
写真は、銅像後ろの展望台から見た「浦の内湾」です。
なると4
武市半平太(瑞山) 「土佐勤王党党首、月形半平太のモデル」
         文政12年(1829)~慶応元年(1865)
         勤王の志士、本名小楯

 文政12年(1829)長岡郡吹井村(現高知市仁井田吹井)に出生。家格は郷士出身の白札格。剣士として名高いほか、余技として絵画も嗜んだ。剣を千頭傳四郎、麻田勘七に師事し、新田田淵(現高知市菜園場町)に道場を開く。この道場では、中岡慎太郎、岡田い以蔵らも剣を磨いた。後に江戸に出て桃井春蔵に入門。鏡心明智流の手ほどきを受け、塾頭となる。また、江戸滞在中、長州の桂小五郎、久坂玄瑞、薩摩の華山三円らの志士と交流し、尊王攘夷実現のため参勤の際の藩主入京を目指し、お互いに連携することを約束した。
 文久元年(1861)八月、江戸において大石弥太郎、河野万寿弥(敏鎌)ら土佐出身の同士と土佐勤王党を結成。九月には帰郷し、旧知の坂本龍馬、平井収二郎らをはじめ、田淵道場の門弟などにも声を掛け、郷土層を中心に192名の血盟者を得た。そして挙藩勤王実現に向け重ねて進言したが、吉田東洋主導の藩庁は彼らの意見を書生論と退け、他言を禁じて公武合体路線を堅持した。
 藩政の転換を目指す勤王党は、参政吉田東洋の排除を画策。文久二年(1862)四月、半平太は那須信吾ら三名の刺客に命じ、帰宅途中の東洋を斬殺した。この結果藩庁内部の人事は一新され、八月には多数の勤王党員らを従えた藩主豊範が入京し、京都警衛、国事周旋に関する内勅を得た。半平太は京都にあって薩長同士らと勅使東下のため奔走。 10月には攘夷実行を促す勅使が江戸に下ることとなり、半平太自信も副使姉小路公知の雑掌柳川左門として行列に加わった。
 帰洛後、上士格の御留留守居組に、さらに翌文久三年(1863)三月には京都留守居役加役に進むが、同年八月一八日の政変で、尊王攘夷派の長州藩が京都を追われ、公武合体派が復権すると、九月には土佐でも前藩主山内容堂が土佐勤王党を弾圧。帰郷していた半平太も、南会所の揚屋で後藤象二郎から吉田東洋暗殺事件の審問を受ける。否認し続けた半平太であったが、慶応元年(1865)閏五月に切腹を命ぜられた。享年37歳。

※見易さのため一部漢数字をアラビア数字で入力しています。
なると4
メモ代わりの動画です。
https://youtu.be/Dvw46Ws711E
なると4
此の辺りは樹木で正確な位置が特定できませんが、この辺だと思われます。
なると4
がらん様

いつもありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
なると4
メモ代わりの動画です。
https://youtu.be/I6SmQcV67Wk
なると4
メモ代わりに周辺の動画を撮影しました。

https://youtu.be/2LhVCJS3qWE
親マップ: 坂本龍馬像 by mi像0001
なると4
清滝寺に行く途中にありました。
これは「詩」でしょうか?
所々読めません。

枯葉のギター 子ハ抱きしめて い?しも
秋蛍?俵?万年彼の 虚空
なると4
水子地蔵の横に自然石の石碑がありましたが、何なのかは良くわかりません。
なると4
清滝寺(高知県土佐市高岡町)2016/6/18清滝寺(高知県土佐市高岡町)2016/6/18
写真は、前方から見える景色です。
なると4
阿弥陀如来、千手観音、十一面観音を確認しましたが、あとは不明です。
なると4
明治三十九年三月の後に文字がありますが、写真が不鮮明で良くわかりませんでした。
なると4
(碑文)
沖魂神社 本殿新築、玉垣新設記念
 八万村政当時本村に於ける堤内水害予防組合は四組合とし各々明治三十一年設立其の内一組合が両沖濱村堤内水害予防組合と称し時代の進運に依り昭和十二年八月八万村が徳島市に編入せし為八万村所属の両沖濱村堤内水害予防組合も解散し組合所属の土地を両沖濱住民代表者十二名の者へ無償を以って名義変更し今日まで維持管理を尽くして来たが昭和五十年徳島県施行八万東区画整理事業に基づき精算金の交付を徳島県より授受し沖魂神社玉垣総工費七百五十七萬円を予算化し町民全体の同意を得て完成するに至れり。
   昭和五十九年四月三日
なると4
(碑文)
組合創立十周年記念碑
 昭和四十三年七月当時六名の発起人相謀り繊維卸団地の建設を計画、同志の獲得を始む。
 同年九月同志三十一名を得て徳島繊維卸近代化団地建設準備会を結成し、問屋町の建設用地を八万町のこの地に定む。
 超えて昭和四十四年二月十八日組合員四十三名により協同組合徳島繊維卸団地創立総会を開催引続き用地の買収、埋立工事、建設工事等幾多の難関を突破して、太陽と緑と空間の近代的街づくりを推進し、昭和四十六年十月営業を開始す。
 爾来幾星霜組合員の経営の合理化と共に、強固なる団結と協調による組合共同事業の推進により、地方流通界の拠点としての地歩を固むるに至る。
 現在の組合員四十八社、茲に組合創立十周年を期して盟約の誓いを新たにし、更に今後の飛躍発展を期してこの碑を建つ。
    昭和五十四年五月
 協同組合徳島繊維卸団地
なると4
がらん様

ご指摘ありがとうございます。
修正しておきました。
なると4
winecolorさんへ

了解しました。
帰宅後処理します。
なると4
(説明板)
坂本龍馬彰勲碑
 この碑は幕末に坂本龍馬と親交のあった土方久元の龍馬をともらう七言絶句の詩を彫記したものであり、「東走西奔身を顧みず、長山薩海往来頻りなり、奇勲未だ奏せざるに奇禍に羅う、遺恨千秋鬼神を泣かしむ(原漢文)」とある。下方には自由民権運動の再興指導者であった板垣退助の撰文がある。この碑は大正4年(1915)に建てたもの。近くにある「忠魂護皇基の碑」には、細川潤次郎の「とこしへに国守るらんなき魂の皇后の宮のゆめに誓ひて」という和歌が刻記されている。

(石碑)
故阪本龍馬先生彰勲碑
東奔西走不顧
身長山薩海住
来頻奇勲未奏
罹奇禍遺恨千
秋泣鬼神
※碑文のままです、実際には7文字づつで区切ります。
 下の漢文は文字が多すぎて転記する気力がありません。(泣


縮小前の画像
https://goo.gl/photos/2C76qJbYHY1Jry...
https://goo.gl/photos/rh27ChYYvsuaQ1...
なると4
道路改修の記念碑のようですが、所々不明な箇所がありますが、
https://syncer.jp/katsurahama-park-k...  を参考にしました。
2年前は現在よりも鮮明に文字が見えていたようです。

桂濱ハ高知ノ名勝ニシテ松青ク砂
白ク巖上ニ龍王宮祀リ風景絶佳土
佐ノ江島ト稱セラル得月樓主松岡
寅八翁敬神ノ心厚ク資ヲ投シ神橋
道路ヲ修シ景勝益加ハル今記念碑
ヲ建ツルニ及ビ後世之ヲ傳フ
昭和二年二月一日
    浦戸村長 小松茂盛識
なると4
(碑文)

大きい方の石碑

海津見神社(龍王宮)
 御祭神 大綿津見神
 鎮座地 高知市浦戸字城山
 御創建 不詳(伝 長宗我部時代とも)
 御神徳 海上安全 漁業豊登 祈雨祈晴 商売繁盛 良縁成就
【桂浜由来】
 古くは嘉列浜、嘉津浦浜、勝浦浜などと記され色の浜ともいわれた。
 江戸時代には勝浦浜村が独立していたが、その後浦戸村に含まれた。
 いつの頃よりカツウラがカツラと転化し、月の桂の字が当てられ、桂浜となった。
 土佐五代藩主、山内豊房公の命名ともいわれる。

小さい方の石碑

海津見神社
海津見大神を斎り
海 漁業 商業の守り神として崇敬あつく
桂浜龍宮さまの愛称もって世に知られる
  祭日旧三月十五日

なると4
(説明板)
旧制高知高校校歌碑
旧制高知高校校歌(第1回生   松野   仁作詞)
            (安芸市出身 弘田龍太郎作曲)
1. 自由の空に寄す美波溟の 永久なる浪の響
    常夏の地や建依別の 渥き血潮は流れて尽きず
2. 独創進取は生命の光 生くるは未来未来
    輝く眸 啓示は何ぞ 真理の把握は我等が理想
3. 理想のうねり溷濁の世に どよみて響くいざや
    我闘はんみ国の為に 月の桂の旗押したてて
4. 正義を叫びまことの愛に 覚醒むる我等我等
    いでや進まん大地に堅く 国土の足の跡印すべく
5. 溢るる力秘めたる抱負 誓は堅し見よや
    古城のほとり輝く甍 高知高知ああ我が母校

 高知高等学校(帝国大学や官立医科大学など教養課程に相当する旧制高校のひとつ)は、大正12年高知城の北、高知市小津に創立されたが、土佐の自然や精神的風土を慕って「自由の空」の下に、全国各地から生徒が集まり、「感激無き人生は空虚なり」を、進学のモットーとしえ、独自の校風を形作った。
 開校当時、生徒による十余篇の応募歌詞から選ばれたのが、この校歌で、作成は松野 仁(第1回生、室戸市、旧制安芸中学出身)、作曲は東京音楽学校の弘田 龍太郎教授(安芸市生まれ)に依嘱された。
なると4
(説明板)
豪気節の歌碑
豪気節(旧制高知高校第1回生)余田弦彦作詞

一ツトセ 一人のあの娘が恋しけりや潮吹く鯨で気をはらせ
               そいつ豪気だね
二ツトセ 故郷忘れょか若き身に桂の浜に星が飛ぶ
               そいつ豪気だね
三ツトセ 南の海や土佐の国革命と自由の生れし地
               そいつ豪気だね
四ツトセ 善し悪し騒ぐな野暮な奴飲めや歌えやはね廻れ
               そいつ豪気だね
五ツトセ 意気は尊い血は燃える黒い女にゃ慕われる
               そいつ豪気だね
六ツトセ 無為にや過さぬ三年の元気はみ国の宝なり
               そいつ豪気だね
七ツトセ 泣いちゃいけない気が弱い二十世紀に吼ゆる身じゃ
               そいつ豪気だね
八ツトセ 優しい心もないじゃない浦戸の沖に鳴く千鳥
               そいつ豪気だね
九ツトセ この浜よする大浪はカリフォルニヤの岸を打つ
               そいつ豪気だね
十 トセ 時は永劫じゃ常夏の土佐の高校の胸の意気
               そいつ豪気だね

 高知高等学校第1回生、余田 弦彦は、熱血の詩人で、高知にも多くの逸話と寮歌を残したが、京大法学部在学中に、惜しくも病没した。彼の歌の中で、一番愛唱され、日本中に有名になったのが、豪気節である。
 「この浜」で、焚火のまわりに肩を組んで、豪気節を歌い、樽酒を汲む三春の行楽、中秋の観月は、高知高校生の血を湧かせ、「カリフォルニアの岸」は、当時としては極めて壮大な、青年の気宇を表すものである。

(石碑)
表には9番の歌詞、浦には1から10番までの歌詞が刻まれていました。
なると4
(歌碑)
大土佐の海を見むとて
うつらうつら桂の浜にわれは来にけり


(説明板)
吉井勇歌碑
 吉井勇は歌集「人間経」の詞書に「昭和6年5月、われはじめて土佐の国に遊びぬ。海は荒かりしかども空あかるく、風光の美そぞろにわが心を惹くものありき」と記している。碑の歌はこの旅を詠んだ「土佐百首」の一つ。
 吉井勇(1886-1960)は歌人・劇作家。東京生まれ。祖父は薩摩藩士・伯爵。勇は初期の歌集「酒ほがひ」「東京紅燈集」などで青春の哀歓を歌い、独特な頽唐歌風を樹立したが、後年、「流離のおもひに骨も痩せける」旅を繰返すようになり、歌声もまた変った。昭和8年、勇は思い屈して妻と離別し、爵位も返上した。翌年、流人のように土佐に入った勇は猪野々(香北町)に庵(渓鬼荘)を結んで陰棲した。「人間経」や「天彦」の侘び住みの歌には落莫たる孤愁が漂っている。昭和12年、勇は孝子夫人を迎えて高知市に移り、翌年京都へ去った。吉井勇にとって土佐は酒の国でもあったが、更正の地でもあた。
 吉井勇の歌碑は高知県下に八箇所ある。
なると4
(説明板)

浦戸砲台場跡
 この場所には、万治年間(1658-1660)に建設された浦戸の灯明台があって夜間舟の出入りする時の目印になっていた。
 寛永15年(1638)に外国船来航を監視するに土佐藩内4ヶ所に遠見番所がおかれ、正徳6年(1716)の記録によると浦戸にもおかれていた。やがて外国船が日本近海に出没するようになり、文化5年(1808)に大筒を配備し、文久3年(1863)には本格的な砲台場を構築した。この場所は弾薬を貯蔵していたといわれている。
なると4
桂浜公園(高知市浦戸)2016/5/14桂浜公園(高知市浦戸)2016/5/14桂浜公園(高知市浦戸)2016/5/14
この辺りの風景です。
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