garan » コメント一覧

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garan
おはようございます
ふもとの《想古亭げんない》の客室のふすまにこの碑の古拓が装丁されているようです。タグ貼らせていただきました。
【篆額】賤嶽戰趾碑 【碑文】賤嶽戦趾碑 (本文) 明治11 滋賀縣令籠手田安定撰 宮内大輔杉孫七郎篆額 滋賀県一等屬齋藤真男書
https://www.google.com/maps/@35.5052...
garan
おはようございます
「木村敏 造之 1964」とあるようです
garan
堕落之魂さま おはようございます。
DEEPなところをチェックしてますね。画像貼りました。
garan
おはようございます
「満」の異体字ですね。記念も明治の終りから戦前は紀念と書くことが多いですね。「圓滿(円満)坊合寺紀念」
garan
いひかわさま ごぶさたです。
 『桑名市史』補篇に碑文が出てるんですが、その場所「諸戸東方山荘」を捜索していたところ、この頃徳成邸の土地売却のことを知りました。特別公開にも間に合わず。残念なことをしました。名碑だと思うんですが墓所が残るとしても整理されれば碑もどうなるかはわかりません。
 長嶋城に依った願正寺証意を、元亀二年に信長が攻めたときに、諸戸の祖定直が城中の戸板を集めて城を守ったことから、証意より「諸戸」姓を賜ったこと、同年の総攻めの時願正寺遺孫を守って大坂の石山へ逃れたことなどが顕彰されています。
 同書により藩儒秋山家の墓所を訪問した時には、秋山家の墓所はありましたが銘文のあった墓石はすでに萬靈塔の一部と化していました。嗚呼。
親マップ: 諸戸定直の碑 by がらん
garan
紅楓瀑布之碑
手向山在奈良東、崇祀八幡神、山富紅楓、其勝著稱海内、山中又有清泉、社司上司廷絃君與氏子總代某等、謀引而墜之崖、球璣迸散淙然有聲、甃石受之、潴為小池、宛如天造、因名曰紅楓瀑、昔者菅公嘗來、賽於神祠、有歌詠、世人傳誦此山之勝遂顯於千古、令君剏此瀑、更増其勝概、則後世或追跡菅公再發揚其勝、又未可知姑記以竢之、系以蕪詞曰、
手向之山兮、夙名紅楓、山不甚高兮、祠宇巍崇、紅楓之瀑兮、近歳竣工、瀑不甚大兮、飛泉清雄、菅公一去幾星紀、遺咏今古罔與此、節入高秋霜深山、雪簾光映蜀錦美、吾嘗住南都、暇時著謝屐樹、老鳥聲深境幽塵俗隔、頃來移寓東京城、追懐勝景難忘情、他年會當遂歸計、半畝茅屋茲經營、醒目乎山坡燦爛之色、洗耳乎瀑流潺淙之聲、
明治二十七年莫之秋 華族女學校教授正八位土屋弘譔
               正八位大國有壽 書
親マップ: 紅楓瀑の碑 by がらん
garan
 養老瀑泉詩歌碑
粤有山翁貧嗜飲 常思縦酔一厭然
婦営紡績供衣食 子務樵蘇要酒銭
貞節絶倫驚上世 孝誠出類感旻天
夢中鷲卵化金玉 巌下神靈涌醴泉
日々把盃懐巳足 時時浴躰病皆痊
從容共嘯旧棲月 返少遂成陸地仙
皇帝幸臨称瑞物 國家大赦改元年
爾來養老流無尽 水性及今施徳全
聞人や 袖ぬらすらん たらちねの 
老を養ふ瀧のむかしを なる神の 
音かと聞けば 多度山の 雲にとゝろく 
たきつ岩なみ 
元文丙辰夷則上浣 
 濃之芸縣押越村道順謹銘
garan
「渋谷代衛君紀功碑銘」釋文
従二位勲四等侯爵徳川義礼篆額
渋谷代衛君紀功碑銘
東京高等師範学校教授従六位勲六等 渋谷啓撰
美濃著姓、渋谷代衞君、既歿之七年二月、朝廷腸銀盃一個於家、賞其遺功、於是其子豊之助、具状至啓舅谷如意翁泣請曰、郷人将為先考勒石於養老公園以伝不朽、願先生為之文、舅以耋老辞命、啓代之謹按君之功、可紀者有三、曰設郷校也、曰開公園、曰施防水工事也、君旧多芸郡大野邨人、家世里正、初 朝廷頒学制、君首捐別邸、充校舎、雇師教、児童数十名、給書籍筆紙、庀器用者年、邨民頼恵、養老勝蹟荒穢日久、大官某氏嘗来遊慨之、勧県令修治、県令謀之君等、君唱導同志醵金購地、新闢坦途、構楼其上、雑植桜楓、以為溝息之処、設法永存、郡之地形以牧田川分南北、其南則除多度山麓高原、揖斐津屋両川東西夾之、金草川横亘其間、合流牧田川、外環以大堤、号曰多芸輪中、而輪中又分為数区、多築小堤以備大堤潰決、其費皆出于邨民、封建世、公邑藩封犬牙相錯、賦課軽重失宜、土功議多阻不行、明治中興百度釐革、君以為不及此時、改旧慣和同共済尽力大堤、則不能竟免昏墊之害也、乃巡遊諸村、歴説耆老、皆頑然不応、君百方暁諭、久而後悟、請県創水利土功会、謀期十年修築、毎歳議決
先其要衝、漸次及余、遂得竣功、十七年夏木曽長良揖斐三川暴漲、各郡変為一大湖、県令大憂之、将上京請政府救済、率君同行、君詣諸要職訴災民窮状、辞旨悃惻、政府為発金数万円賑之、盖君為人温厚勇于義、事親孝、家
門雍穆、僮僕訢訢如也、郷党有争訟数年不決者、籍君一言而解、以故特為名古屋大垣両藩主所優遇、前後捐私財五万円、晩年得病荏再不愈、又遭大震壊屋、乃集餘材再築、卑陋僅蔽風雨、名曰弥縫庵、取国音与貧乏相近也、
及歿嘱家人曰、我私謀利世、為家産其愧于祖先、我死汝等必薄葬、勿使重得罪矣、遠近聞者無不痛惜焉、君諱政貞、号枕江、考代右衞門妣中島氏、以文政七年三月二十五日生、明治二十九年八月十八日歿、寿七十三、葬邨之
覚林寺塋域、配宇佐美氏生十一子、男豊之助理兵衞孝次、理兵衞承家、豊之助孝次竝出為人、後三女皆嫁、餘夭、啓辱列宗末、夙欽君功、又感袞褒之恩、乃承舅意而叙之、且係以銘曰
多度之山  神瀵涌焉  翠華曾幸
嘉瑞紀年  君謀復勝  乃治乃宜
卉木改色  林巒加妍  教我子弟
阪我河川  利民済物  厥徳無愆
豊碑屹立  在彼山巓  石或可勒
盛名不騫
明治三十六年三月 
    正五位 日下部東作書

碑陰:
明黨年来懐徳恵 雰気身後賜恩褒 
斯翁功績将何比 養老之山千古高
近江族姓 四位 谷鋏臣題
garan
「老農」ですね。
親マップ: 平井老農之碑 by winecolor
garan
おはようございます。
この額はほかで画像を見たことがあるのですが落款印の一つに「石黒敄(務)印」とあり、もう一つは欠損していました。石黒務は元彦根藩士石黒伝右衛門の維新後の改名です。
garan
牛丼松屋之碑
winecolorさま おはようございます。□に字入れしてみました((´∀`))
「平井老農之碑」が正解。農学士平井重蔵の碑です。「井」の篆書は「丼」のように点を添えて井戸に水があることを示す指示文字でしたが後に省略されて「井」となりました。丼の字は日本で作られた国字ですが篆書の井と同型になってしまいました。
 あと松島錬精の碑とともに次のような資料が見つかりました。

「二宮尊徳翁五十年記念会」以前における報徳社とその周辺 大学教育開放センター前田寿紀(金沢大学)

・(明治)33.10.13 引佐郡長田名瀬勝則、磐田郡長池田忠一等 、「三遠農学社」秋季大会兼故松島練精・故 平井重蔵建碑式に式辞。西郷従道、三遠農学社長松島練精翁紀徳碑に篆額(撰文重野安繹、書成瀬温)。前引佐・麁 玉郡長松島十湖、平井重蔵の碑に篆額(撰文太田有終、書吉川康) 『大日本帝国報徳』第52・53編

これを参照に画像を拝見すると 松島十湖篆額 大田有終撰 吉川康書と見えます。石工の名は拡大しても見えませんでした。
親マップ: 平井老農之碑 by winecolor
garan
Juan氏情報をもとに検索、乾隆帝の亀趺碑が九基もあるとか(ΦωΦ)
https://blog-001.west.edge.storage-y...
garan
こちらも
・青竜軒碑 (鈴木芳清、号青龍軒、通称茂平) 明治41 凹山英熙識・篆額 荻原元良書
凹山は豊川財賀寺住職三宅英熙、荻原元良は祝田村の医家だそうです。
鈴木青龍軒は不詳。武を嗜み講じ、拳法・刀法・棍法を学んでその動き電光石火、明治33年83歳で亡くなったようなことが碑文に記してあります。
garan
こちらもおじゃま
青竜軒碑 (鈴木芳清、号青龍軒 通称茂平、武術家)明治41 凹山英熙識・篆 萩原元良書
凹山は豊川財賀寺住職三宅英熙。書の荻原元良は祝田村の医家だそうです。
青龍軒のことはわかりません。碑文に拳法・刀法・棍法などを学んで明治33年に83歳で亡くなったようなことが書いてあります。
親マップ: 青竜軒碑 by winecolor
garan
winecolorさま おはようございます

そこらまて 神馬曳出す 若葉かな  竹交
明治十八年五月建  鈴木角平 翠塢□政家書

人物についてはちとわかりません。ググると旧市街に鈴木角平酒店というのがあるのであるいは関係あるのかも。字を書いた人のせ姓あたる部分がよくわかりません。堀とか根に見えるんだが根とすれば利根翠塢がヒットしましたが、その人の傳も不明です。
garan
愛知縣知事從四位勲四等江木千之君篆額
刊石頌德、近世之通習矣、然而有道無愧者能幾、如服部君鐵翁、盖其人歟、君諱政嘉、鐵翁其號、称鐵四郎、尾張中島郡三宅村著姓野口政房第四子也、資性鋭敏、頗有才幹、天保八年十月年、二十三出贅、配于同國海西郡荷之上村里豪服部弥兵衛季女、分立一家、嘉永之初、開塾授徒讀書習字執贄、而及門者前後二百有餘人、而内則撫子弟、外攝理郷村公事、拮据有功、藩公特許冠姓帶刀、以酬勞、當時往往年穀不稔、君屢施錢粒、賑窮氓、官爲賜者奨之物數次、君之平生、亦足以想見焉、君以明治七年五月三日歿、距生文化十二年八月、享年六十、頃者其門人故舊、謀勒君事蹟於石以傳後、屬余撰文、余與君之令嗣高次郎、有交誼、不得辞、故叙其概略如此、     擔風學人服部轍撰
 明治卅一年歳在戊戌晩秋 桑名佐治爲善書
              石工根來市藏
garan
大姉父於宮忠門卿於西景長性質直機敏如
流星將雄似崩石少崇佛乘經譚録説聞而弗
置嘗喪卿毓嗣嗣英年僅志學不堪家務自攝
事撿身服勞是繇恐其風之墜圖其業之永也
英長治産於此締亭於第之乾退閒十餘祀于
茲今載寶暦癸未之春有□恙醫藥卒無驗巳
使英候胗英曰樂只常□自不悦曰我始知其
不起啻待行□耳况死生無別唯是不生不滅
英曰安住此不生滅何待之有次日請師決末
後之事師曰開不生不滅能□纔擧念早是生
□大姉□頭合掌致敬自爾兪兪言笑如常毫
□所惱乃召英慇諸婘爲訣泊然而悦宲五月
二十八日也享年五十有九卒□於斯事猶棄
□□其眞必矣所謂聞而弗置者不然耶因識
寶暦十三癸未秋 本寺第六代中百靈撰
garan
【西河海荘墓碑】
菊莊名景瑛字子發尾張名護屋人淺井明義之子也年十□
鳥地西河景長子□□子發事翁媼姑所生慈斈俱至幼時從
彌勒寺荊巖和尚讀書又師事柗平君山先生能詩嘗之京師
詣東福寺會諸人賦詩子發預坐頃之得九宮律乙篇有驚句
衆時愧服就佚山黙隠師學画後佚山遊尾張寓于子發累句
鳥地有画人自景□□寶暦中修水利江戸大久保執法監其
事館子發之□□□□驩之謂曰我號左龍汝宜號右龍其愛
子發如此鳥地有子女曾與者子發爲之作傳鐫刻行于世志
水夫君嘉之賜服褒之蓋異數也娶宮崎氏亦好詩画生三子
長景伯次菊延次景保子發夙有遯志中年傳産業於景伯不
□關世務築亭田間曰無爲更構騰雲臺日招郷里子弟授句
讀教書法凡八年所箸有菊莊集寛政六年甲寅八月十六日
以疾終年六十一先是夢中得句覺後足成之曰菊莊元是在
□班偶住仁□駐客顔廣問逍遥何處去白雲湖上□□□是
爲□□葬於鳥地彌勒寺境内矣門人數半與景伯謀立石□
上戮□輸金以助費索銘於余銘曰菊莊為人和易□□□生
所□在□巽酒□朝□□去□□□石上勒銘□□不□
寛政六年冬日     田挺□撰   沙門良□書
親マップ: 西河菊莊の墓 by がらん
garan
地主 
佐野玄入居士者、本勢刕鈴[鹿郡富]田村之生、縁三十餘歳、而來開發地[於]尾州海西郡鳥ヶ地新田、以事農家人也、世壽八十二歳、元禄八年十月廿九日而逝、
西川善祐居士者、當國海東郡福田村之生、縁中年而開發地於海西郡生鳥ヶ地新田、以事農家人也、世壽八十三歳、元禄十一年四月十日而逝、
于茲、尾刕海西郡鳥ヶ地之住人孝子、各爲内父菩提造立是石碑、可謂厚志至誠者也、于時元禄十六年癸未之春、同村龍華山彌勒禪寺現住比丘密天叟欽誌

孝子 西川氏無□
   [佐野氏□]忠 忠重 忠廣 忠吉 忠光
garan
蕭林秋颯居士
大然知公大姉
行恭休節居士
圓窓静閑大師
節山貞高大姉
法喜禪悦童子
順正院皓月俊貞大姉
悦山可蘙童女

宮氏合祀碑陰記
尾張海西郡鳥箇地新田有佐野氏、世爲富家、忠基者有季子、曰文忠、字春助、因其父所出、改爲宮崎氏、爲儒入京亡葬于禪林寺域、有子宮奇、字子常、又字常進、號筠圃、先生以儒著於當世、語詳於其碑、筠圃娶入谷氏、擧男早歿、又娶飛森氏、生女名延、事臺閣久我源公後閤、以文化十年四月廿三日亡、佐野忠興傷其宮氏無嗣、兆域隔絶、遂建此碑于舊塋、以共香火云、属記於余、余以爲昔陳師道爲甄氏記、思亭曰、服盡則情盡、情盡則忘之去、佐野氏於宮崎氏其可忘乎、然至於後世、情盡而、□固□□□、視此碑思之則、其可忘乎、忠興□□可謂仁矣、遂録斯言、爲記、
文化十一年暮春  尾張藤益根
garan
島村志津摩の碑文
【篆額】濟勤
【本文】
前豐以険聞者、金嶺居其一、慶應丙寅之役、我小倉藩老臣嶋村君、拠以防敵焉、初幕府征長州、以我藩為西面先鋒、戰干田浦、大里、鳥越等處、既而將軍薨、鎮西諸藩、従征在境内者、皆遽解去、監軍使夜遁、我兵孤危、幾乎將潰、君慨然勵衆、死守此地、與狸坂兵、相成掎角、以塞敵南出之衝、於是兵気復振、君諱貫倫、剛果鋭勇、胆略過人、此役、将先鋒第一隊、大小數十戰、立干彈丸雨注之間、從容指揮進退不失其節、士卒悦服、樂爲之用、故能以善戰著、後以病歿、士民追慕、欲建碑傳其事遠、請余文、余嘗與君親善。又喜郷人有此擧、遂書碑刻之、
明治十九年丙戌冬十一月    吉雄敦撰並書
garan
篆額の「産」の字は「文」+「隹」のように見えて読みづらい。「厂」を「生」の竪画が突き抜けてまた「生」の一画目が略されているのが原因で誤字っぽい。
garan
winecolor さま おはようございます
 去年の二月に訪問した時の画像です。時間がなかったので夜中の探索(-_-;)
親マップ: 小桜の塔 by winecolor
garan
碑陰;
明治四年、我沖繩縣舊藩民漂到臺灣、遭害者五十四人、越五年
朝廷詔海陸諸軍征間其財兇賊迎降、乃拾収遺骸、齎歸葬之若狭町上之毛、而墓地偏僻不便、於是有志相謀醵資移之護國寺之域、建石表之、余因叙其略云、
 明治三十一年三月 
  沖繩縣知事従四位勲四等男爵奈良原繁誌
台座;台湾遭害者名(列名)
garan
 2016.2訪琉時に付近を徘徊したものの見つからず。沖縄戦にも被災しなかった数少ない古碑の一つでした。個人の敷地内にあるそうです。
http://van2.blog14.fc2.com/blog-entr...
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/p...
garan
なると4さま おはようございます
元画像からでも判断しかねるんですが、白山明神(權現)は「妙理大菩薩」という名乗りもあるそうです。ご参考までに
https://ja.wikipedia.org/wiki/白山権現
garan
(水盤銘文)
乃木將軍及夫人之薨、來拝墓者士女成群、爭奉榊、枝供香花、薦錢幣、香火恐爲災、錢亦無所用、乃掲榜謝止二物、而堆積之錢、已有數十圓、會軍艦津輕號下士卒三百四十人集金十有八圓、以見贈露國貨五留、米國桑港婦人某氏又寄以其國幣五弗、其金總至七十四圓五十錢有奇、蓋中外人士感嘆金欽望之深、至此已然將軍高潔廉介、一豪不取於人、未知神靈、果受之否也、而斥還之亦不可、於是乎湯地・塚田・大館・玉木諸氏相議、以其財、造石盤一基、置諸墓側、以供衆人洗手之用、庶幾不虚諸君至意、而神靈亦不必拒斥也、
大正二年五月十三日 湯目補隆謹識
garan
護佐丸父祖の墓碑文
【碑文】
往昔、吾祖中城按司護佐丸盛春は、元山田の城主に居給ふ、其後、讀谷山の城築構ひ居住あるによりて、此の洞に墓所を定め、内ハ屋形作にて、一族葬せ給ふ、然處に、幾年の春秋を送りしかは、築石造材悉破壊に及ヒ、青苔のミ墓の口を閉せり、爰におゐて、康煕五十三年墓門修復、石厨殿に造替し、遺骨を奉納せり、さて永代子々孫々にも忘す、祀の絶さらんことを思ひ、毎歳秋の彼岸に供物をささけまつる例となりぬ、仍之、石牌建立之也、
大清乾隆五年庚申十月吉日
         裔孫豊見城親雲上盛幸記之  
【碑陰】
此碑文、康煕五十三年、隆為建置、年来久敷、文字不詳、依之、此節建替仕也、
         書調人 毛氏山内親方 盛方  
         彫調人 毛氏又吉里之子盛庚  
garan
山田水車屋のマネキン
wainecolorさま こんばんは
2016.2に近くを通過。マネキンが見えたので止まったが中には入らず。顔出しも見たかったね。
garan
winecolorさま こんにちは 読んでみました。句碑ですね。金衣公子とはウグイスの雅名だそうです。節は音節(鳴き声)か。
・朝々に 金衣公子の 節を見る  古希洞光
garan
(栗田公訓略伝)
公訓名昭、字(ママ)公訓其字也、號小艸齋、丹後田邊牧野家之儒員也、幼授業於同藩儒員笛浦野田先生、博學洽聞、不所不通、特精植物學、性奇僻不与世親、故世人亦多不知其有學、明治卅三年二月八日卒、享年   、葬於駒込千駄木林町世尊院(『小草齋雜抄』巻末付録、今泉雄作記)
親マップ: 栗田公訓の墓 by がらん
garan
・伊賀衆奉納の水盤(「忍びの館の忍者コラム」を加点修正)
天正十八年庚寅、
神祖在和泉、曾有明智光秀之亂、乃還師三河、到伊賀而賊兵蜂起、道路不通、土人郷導而啓之及
神祖入關東、賞其功召之賜食地於武州、命為伊賀者、実我黨之先也、於是、相謀而築倉為蔵租米之所、且遷本國所祀之稻荷神建祠其傍、世々奉之焉、然而星霜轉換、社宇壊廢、今茲某等一百八人、戮力修之、亦繼祖先之意也、因鐫其姓氏、以告後之子孫云、
嘉永二年歳次己酉二月七日 櫻井壽胤書
(他面は列名)
garan
如卵翁(石川政忠) 碑文:
翁姓源氏石川、名政忠、俗稱茂兵衛、號是鶴堂、如卵其別號也、性好生花、嘗受方於法眼是心軒一露之門、尤極其奥秘、門人多従之學者、松月堂生花一派之行、翁之功爲多焉、文化十四年丁丑五月十八日罹病卒、享年七十有八、門人某甲等謀之、別爲樹此石、傳翁名於後日云、
文政六年癸未二月    藤村光直識
garan
・高間春渚墓 碑文:
春渚墓
君諱明遠、字季文、號春渚、又稱清環堂主人、尾張人李蹊之弟也、爲人敏惠温厚、而有才氣、李蹊之將死也、召君屬以後事曰、吾今且及不能終、母氏之養是可憾也、汝善事之、於是奉兄之言、事母益謹育兄之子一男一女、視之猶己子循々然無私、營家事大治可謂動焉、嘗師事滄洲先生、篤志文學、又善繪事、性能容人、風流醢藉、清風朗月、坐上客滿、擧杯酌酒、輸寫胸襟、或惨然下涙、既而嘆曰、如此可以遣吾情也、天明丙午十一月二日病没、年三十、葬于城東乾徳寺先塋前、在會葬者如雲、莫不悼惜焉、君娶尾關氏、生君早夭、君嘗與吾輩結五子之社、■窗者先已逝矣、今又遭此不幸、嗚呼悲哉、銘曰、
維孝維友 宜弟宜兄 神之在此 雪白月清
                  井上正春謹撰
 跆安道榮居士   
親マップ: 乾德寺墓碑類 by がらん
garan
・雲嶂宮常居士(山田宮常)碑文:
雲嶂居士姓山田氏尾張人也性温厚
■■文雅善畫嘗遊學亰師十餘年■
■■前津小林邑業畫稍々便張人■
■■文雅之囿又愛禪有暇則就諸碩
■問禪味焉可謂篤志也偶有病以寛
政癸丑十二月二十七日没年四十七
惜哉同人哀悼之餘相與欲建碑以表
居士之墓居士在日與月樵同業最■
■是月樵奮與諸友謀卜地長榮禪寺
■■余誌其事居士之名千歳與石長
・・(■と・・以下欠損)
garan
parunasさま こんばんは
 ここは数年前に立ち寄りました。タグと画像、碑文の一部(読み切れず)を貼らせていただきます。この塀の向こうが養壽庵(移転)と養壽庵を建てた伏屋家(現在は別家)だそうです。当時路程で立ち寄った万町の墓地に伏屋家の墓所がありましたが、この頃マッピングしようと確認してみると航空写真では更地になっているようでした。あるいは整理されてしまったのかも。
http://hizou.30maps.com/map/175139
http://hizou.30maps.com/blog/175145?...
garan
雄貞院歸操蕣芳信女 雄貞院歸操蕣芳信女 
伏屋家墓所
・雄貞院歸操蕣芳信女 (碑文面剥落)
親ブログ: 貞珉不遠 by がらん
garan
伏屋鈴環翁之墓伏屋鈴環翁之墓伏屋鈴環翁之墓伏屋鈴環翁之墓
伏屋家墓所
・伏屋鈴環翁之墓 弘化2 大澤邁撰 行方信敏書
親ブログ: 貞珉不遠 by がらん
garan
正貞院慈明栄壽大師正貞院慈明栄壽大師正貞院慈明栄壽大師正貞院慈明栄壽大師
伏屋家墓所
・正貞院慈明栄壽大師 安藝頼寛(春水)撰 □政芳立 ・・・書
親ブログ: 貞珉不遠 by がらん
garan
宝因伏屋翁墓宝因伏屋翁墓宝因伏屋翁墓
伏屋家墓所
・宝因伏屋翁墓 越後片・・(撰) 泉府河・・(書)
親ブログ: 貞珉不遠 by がらん
garan
晴峯院真月智照大姉 晴峯院真月智照大姉 晴峯院真月智照大姉 
伏屋家墓所
・晴峯院真月智照大姉 (文政元没) □耳山豊僊撰 文政2 伏屋楠芳建 弘化2 伏屋磯芳彫文
親ブログ: 貞珉不遠 by がらん
garan
伏屋田人翁之墓 伏屋田人翁之墓 伏屋田人翁之墓 伏屋田人翁之墓 伏屋田人翁之墓 
伏屋家墓所
・伏屋田人翁之墓 
※亀趺、第三面剥落
親ブログ: 貞珉不遠 by がらん
garan
伏屋家墓所 遠祖之墓
伏屋家墓所
・高階長者 遠祖之墓 伏政芳素狄建之
親ブログ: 貞珉不遠 by がらん
garan
winecolorさま こんにちは
数年前に訪問した画像を引っ張り出してきました。官兵衛のころだったんですね。
garan
たこはちさま おはようございます
碑陰の画像とタグを貼らせていただきました。
親マップ: 鬼貫句碑 by たこはち
garan
nama.eさま おはようございます。
 治五郎先生の像は講道館本館ビル(事務棟)にありますのでスレッドを移動しました。またメモなど貼らせていただきました。もとのスレを建てられた場所も講道館のビルで新館ですが、1Fは貸店舗。上層階に武道場があるそうです。
親マップ: 嘉納治五郎像 by nama.e
garan
parunasさま おはようございます
「鯉之碑」かな?碑が小っちゃくてよくみけませんけど。
親マップ: ○之碑 by parunas
garan
せっかくお近くまで寄られたのに残念ですね。画像と詳細は井伊谷宮のサイトにもあります。
http://www.iinoyaguu.or.jp/keidai/ka...
親マップ: 宗良親王歌碑 by がらん
garan
winecolorさま こんばんは
井伊谷制覇おめでとうございます。画像ありがとうございます。雪峯は朝鮮通信使の写字官であることもわかってきました。
親マップ: 龍潭寺 扁額 by がらん
garan
まってました‼多謝
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