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garan
松平祖先之墓
民部少輔從五位下諱忠容、小字善十郎、姓源氏、松平其先出自桃園王信濃上田城主従四位下侍従兼伊賀守諱忠周之季子也、侍従公爲京尹之、享保壬寅夏六月十一日生、公於堀河邸侍従、公遷為執政、明年乙巳、公来於 東都、而居青山之邸、戌申四月侍従、公卒、嫡忠愛嗣、乃請朝割信濃河中島五千石為公之食邑、盖侍従公遺言也、元文中、公為西城給事中、以性多病屢乞骸骨、  優諭不許、特  恩令漫游郊旬以養疴、世以為榮、寶暦丙子春二月、准親軍元帥、其五月拜侍中其所主如内謁者云、無何以病致仕而薙髪、自號笠翁、間適養老、安永辛丑春正月廿三日卒、享年六十、葬于 東都天徳寺、男一人名忠常、即嗣君也、臣篤恭奉命為銘、銘日、
 生存相府、 膴仕在  公、 支封之祖、 有俶令終、
安永十年歳次辛丑二月廿七日      臣由利篤恭再拜謹誌
親マップ: 松平忠容の墓 by がらん
garan
練齋小柴君墓碣銘
君諱宣雄、初稱新之丞、後改新一郎、號練齋、父忠介、長州人、來爲佐倉藩士小柴理兵衛義子、有故不嗣、理兵衛復養他子、名彌助、命君爲之子、初以善書、補右筆、歴徒目付畱守居中役、嘉永七秊擢代官役、即郡職也、給歳俸三十苞・廩三口、君好學通經史、兼妙筆法、受業福山人小島五一、又修長沼氏兵學、其爲右筆兼藩黌敎員、葢右筆俗吏、君乃能如此、性廉直愨實、以欺人爲恥、其爲郡職直情徑行、與同僚忤、不得久在近地、出管別邑在出羽柏倉者、居數年治績漸著、慶應二年、増秩進班、遷爲府田主税叓、以藩士管幕府田、會計繁雜、君日夜籌算秩然整理、明治二年、改藩制爲書記、無幾藩廢、不復出仕、廿秊十一月廿二日、歾于佐倉大和田新田私宅、享年七十有一、娶川島氏、子四、長曰重稷、稱小次郎、有膽、略通佛蘭西學兼好武術、戊辰變與志士擧兵走會津戰、負創在病房、官軍逼城燒之、乃自殺、時年二十一、次曰洋一、任千葉縣屬、次曰保人、出仕内務任技師、次曰熊男稱寺澤氏、女三、曰富士、嫁林務宦高橋琢也、曰結、曰堂、嫁南徳太郎三子、葬君于千葉郡大和田新田字新木戸前、來請銘、余知君久矣、安忍不銘、其銘曰、
嗚呼練齋 筆法遒勁 人唯知其書 不知其心正 則筆亦正 爲吏十載 自持廉潔 貽惠子孫 聯綿不絶
明治廿一秊十二月 正六位依田百川撰 佐治自謙書 廣瀬音五郎鐫
garan
碑文の読める画像はありがたいです。
garan
【釋文】
伊藤君諱謙、号樟堂、尾張人伊藤圭介之子也、幼承庭訓、長通漢學、兼習洋文、亦精醫理、十一歳随侍東京、十三歳從歸尾州、十九歳游浪華、二十一歳復來東京入醫學校、留心本草中事、明治七八年間採藥於信州駒嶽・御嶽・淺間嶽諸山、後歴日光・箱根・伊豆・勢州菰野山等處、奇花・異草・毒藥・霊根莫不徧採、遂撰『藥品名彙』一書、廣行於世、又譯西人植物等學著為『植學略解』、文部省亦刊行之、十一年患胸病、左肋膨脹、醫治罔瘥、自知不起、常鬱鬱不樂、頼親友勸慰、乃偕遊於瓊浦・麑島・熊本九州諸勝地、又浴於有馬温泉、歸東京養疴、亦手不釋巻故著述頗富、異日期付梨棗、至明治十二年病勢漸増、攻苦尚力、以是益憊延、及八月二十六日謝世、傷矣、距生於嘉永四年十二月、得年二十有七歳又九越月也、
大清光緒五年歳次己卯嘉平之月皇華使者四明張斯桂撰并書     廣羣鶴鐫
※撰・書の張斯桂は清朝末年中国外交官、樟堂の父伊藤圭介との『「清副公使張斯桂」との筆談記録』(国会図書館蔵)がある
親マップ: 伊藤樟堂墓誌 by がらん
garan
読んでみました
・かえりきて 又もや見なん 坂の松
 すみあらすなよ 元の庵
garan
winecolorさま 
 「右近廣隆」とあります。日本海上保険(日本火災海上保険の前身)社長右近権左衛門の御父上の碑のようです。落款とか見えず誰彼の撰書不明で残念です。安居神社の漢詩碑も面白そうだが読めず。
garan
winecolorさまこんにちは、
 明治の漢詩人妻鹿友樵(草盧)の御父上の友蕘(草冠に堯)の碑のようです。
garan

【釋文】
峯上雨初収 風光入勝游 閒雲横遠岫 瀑水響寒流 苔徑樵人返 茂林倦鳥休 更驚山凹處 室裏有帆舟 
辨天峯即事
 文化丁丑之□ 
            萩原正巳
【碑陰】
箱根山中因多勝區、而辨天峯爲一、余嘗聞其勝、而未暇遊、余讀安平□所題詩、其風光宛然在眼、使人神馳日飛日□□□、碑陰以寫他日躋來之意云、丁丑□月□□清水正德誌、男興謹書
garan
蘆湯神遊碑 1792 寛政4 峰山医官撰

【釋文】
蘆湯神游碑
巒山之傍、冠嶽之下、蘆湯出、其浴則可以蒸蕣、可以延齡、貪爲廉、奴化和、且寇盗不侵、惡獸不害、何其美也、叙賞遊、而樂歸、而日思夜夢、以時飛矣、今茲于來、日攀辟佇、弄煙霞、頗有眞人想、然歸有期言、嗚呼人生幾、何人知重遊、果在何年、然心之所樂、惟死而朽、神游必是、因建石、記之命曰、神游碑、
于時寛政歳次壬子仲夏
峰山醫官
東都 樹庵
 黒弘休伯芝甫誌

【碑陰】
東光庵主 菊仙叟
當所守碑 勝間田萬右衛門賢宣
棟梁青木氏
  石工 久吉
     半右衛門
親マップ: 蘆湯神遊碑 by がらん
garan


蘆之湯詩碑・題 文化7 山本北山題 佐羽蘭卿・木百年・絲井榕齋・大窪詩佛・緗桃・山本緑陰詩、大窪詩佛書

【釋文】
涼風生時雨始収 禀風雲脚去如流 東南一角山寸缺 轉出蒼波万頃秋  淡齋佐羽芳
數聲杜宇夢醒聞 起倚闌干夜欲分 最是雙峯奇絶處 一峯吐月一峯雲 愚庵木壽
棧路欹頽挂翠蘿 行人樹杪踏雲過 名山如把奇書讀 妙處偏經險處多 榕齊糸井翼
似霧似煙還似雨 霏々漠々更紛々 須臾風起吹將玄 半作前山一帯雲 詩仏大窪行
鶯聲相喚夢初回 爐虚添香乎自焙 小雨纔収雲脚散 雙峯藷翠入簾來 苙桃今川氏
雲影乍肪還乍明 山邨一日幾駁晴 霏微箜翠凉如洗 滴作前檐疎雨聲 緑駁山本謹
文化七年歳在庚午秋七月           慶雲刻

【碑陰】
蘆湯者筥根温泉也、能諧痼起癈、文化庚午秋、佐羽蘭卿・木百年・絲井君鳳・大窪天民・吾婦苙桃・男謹・喜多武清・谷文一、同遊於斯、賞愛煙霞泉石不凡、各作詩以賦其勝、蘭卿与謹謀、立石勒之於碑面天民書、更使武清・文一及其師谷文晃、各爾魁星像刻碑陰、以長保護此山文雅云、北山山本信有題、慶雲刻
 
garan
浅茅菴狂歌碑
【釋文】
照のよき もヽちを見よと 夕日影 さしてをしふる 枝を手折ん        桐原駒寸
されはとて 千代ふることの かぎるかヾ 岩根におふる 松のときは木     浅黄染人
老ぬれて 花紅葉共 ましては 月となかよき 峯の松の枝           浅水庵
                 浅茅庵選
文政元戊寅霜月
         催主      置兼
                 近家
                 坂守
*読みがたい文字あり、批正を乞う。
garan
「十山亭詩」碑 釋文
【碑表】
新剏十山亭 高臥翠微裏 無復人追隨 日與雲相倚
被以峯頭雲 枕以渓邉石 富貴何關心 無事便侯伯
孤亭在雲外 人飲半天中 莫道無僊骨 醉來将馭風
一望十名山 粧點雲又水 若無詩句佳 奈此煙霞美
青山相峙立 中有玉爲膚 所謂九人耳 更有一美妹
淡齋佐羽芳題  
【碑陰】
文政七年歳次甲申秋八月玉上厳集唐願魯公書
廣羣鶴刻
親マップ: 十山亭詩碑 by がらん
garan
千明仁泉亭「(徳富蘆花)追憶之碑」・徳富建次郎墓誌寫

『徳冨蘆花追憶の碑』
【篆額】
追憶之碑
【本文(上段)】
伊香保の山の仁の泉よ 永遠に人の子を醫し温めて 其處に恒に新たな生命の春を醸せ 伊香保の里も榮えよ 老いたる者よ 安かれ 壮なる者よ 働け 幼き者よ 育て 蕾よ 開け 花よ 實を結べ 墓に入つた者よ 安らに眠れ 伊香保の山の仁の泉よ 爾を愛することを知り爾に愛さる々を得る私共は福である 爾を造りし者に永遠に榮あれ
 蘆花翁は伊香保の山に向ふて斯く心に謂ひつ々けたのでありました
 昭和三年五月十八日  千明主人誌
【本文(下段)】※徳冨蘆花の書
大正癸亥五月 於伊香保仁泉亭 德蘆花
うめよ 殖えよ 湧けよ 流れよ とこしへに
生命の力 仁の泉
【碑陰】
徳富健次郎墓誌寫
君號蘆花、明治元年十月廿五日、生肥後水俣、父淇水一敬、母矢島氏久子、兄蘇峯猪一郎、幼時軆質蒲柳、少壮享父兄訓育提撕、中年以降卓然自立成一家、其著作大行于天下、妻愛原田氏、形影相倚無嗣、臨終託兄以后事泊然逝於伊香保養痾處、實昭和二年九月十八日也、享年六十、君稟性眞摯而狷介、不能與世俯仰、能施人愛衆情緒泉湧才思雲生、畢生亦直情徑行而、只好眞善美、歸葬粕谷村荘之林中者、蓋遺意而亦所以成村人之志也、
兄蘇峯六十五叟揮涙書
昭和三年五月十八日   千明三右衛門・同均建之
garan
転ぼさま おはようございます。
 碑文を読んでみました。歌ではなく大正天皇御即位を奉祝した神田寄進の記念碑のようです。

此のみやしろに、附きたりし田ところの、今は無きことを慨み、
神つかさ・氏子等神田會といふを起して、今泉の本郷と、長良の
福光とに、数段の田を購ひて寄せ奉り、 今上天皇の御即位を
祝ひ奉る記念としたるは、いとおむかし、その会員の名は裏にあり、
 大正八年三月 御歌所寄人従五位勲五等阪正臣しるす
garan
記念碑
當富墓地所遷一瀬墓地者而依五鈴遺響蓋如蓋墓地一瀬自承和中牧田郷比良田人川俣藤継在住之時存在也其後天正九年豊臣氏攻略峯城也城主平田兵庫頭戦死於此地有荒墳存焉爾来為累代墳墓地際大東亜戦争因設置海軍工廠於此地一同相謀而選西光寺境内以為墓地矣此固朝夕耳鐘鼓煉香以慰先霞之地也依而子茲建碑以録於後世
 昭和十八年三月建之 内田高之輔書
北川新三郎撰

garan
石川近江守封内勢州河曲郡罹現町村庄屋常房永井係兵衛氏者至誠純潔加之躬行賞隈之士也曽元禄十丁丑年七月興隣村孚水利致用水出入訴訟於公儀終勝訴焉茲始碍洗游積年偏執固隠弊習之寄以此年々歳々所以謳歌豊穣之者皆氏之濃心血労神心之賜也裏清節足以決於事裏仁屍足以潔裏身藍公僕如氏所稀観也村人因裏所湯地以配裏有徳翻日罹現係兵衛亦有故哉有志薦此偉人建碑以永傅裏係矣
大正参乖祐月建之 改修平成18年
garan
故真木長澄配東島氏墓
東島氏名千登、佐嘉藩士、真木長澄妻、同藩士東嶋幸前女、生長義及二女、明治十三年三月五日病卒、葬青山新塋、享年六十有三年又二月
相良頼善撰并書
garan
(妙心甕蓋墓誌銘)
孺人井上氏、諱德、後祝髪號妙心、水府城西淨滿寺之産、配龜井潮音、生二男三女、寛政二年庚戌十月廿二日病卒、享年七十有七、葬于淨滿寺祔于翁、伯魯以教授官管本藩西學、仲爲僧名宗曄住持横嶽崇福寺、
garan
soretanuさま はじめまして
この画像の双体さまはここ(西塩沢の火の見の下)のようです。
親マップ: 双体道祖神 by 匿名
garan
バス停にあるようです。
親マップ: 双体道祖神 by 匿名
garan
winecolorさま こんにちは
一年前に出かけてみました。位置確認して画像貼りました。小さく「之」字も入っていました。
garan
石割桜さま
現地確認ありがとうございます。作家を調べていた時にヒットしたものを記録しておいたものでした。
garan
拓本で碑文を見ましたのでデータを加えさせていただきました。
garan
しおたろうさま、はじめまして
 アニメの「日本昔話」に「善知鳥(うとう)中納言安方」の物語があって調べたらここへたどり着きました。みちのくの終点、境内の句碑も面白そうですね。タグを貼らせていただきました。
garan
『重闢茶塲碑』釋文
【隷額】重闢茶塲碑
【本文】
重闢茶塲碑記                前縫殿頭松平定常題額
州北河越之野有狹山、跨于多磨入閒二郡、古出名茶、傳言釋榮西嘗入宋、逮建久中歸國携茶種、始蒔之筑前背振山、至其徒高辨普殖之畿道、相地之宜定爲五塲、河越其一也、然而歳月之久、茶戸衰替、佳種蕪没於灌莽深荊之閒矣、其他各塲培養失法、製亦不精、惟宇治擅其名、爲諸州之冠而已、逮文政中、郷之著姓村野氏盛政・吉川氏温恭、與江戸山本氏德潤肯議、重闢塲于狹山之麓、欲以興數百年之癈、鄰曲爲之隨種者數十戸、用力培殖逐次蕃滋、歳收若干斤、佳稱日著、製益精絶、而狹山之産、復再成彰於今云、屬者郷民介上田文吉需予記其事、予素有睦盧之嗜、心喜其擧乃謂、茶之爲物、蘊風露清虚之粹、鍾雲山奇秀之精、滌昬破悶、驅睡解酲、滋味甘香、其功不爲少、羅景倫曰、於務學勤政未必無助、蘇子瞻曰、煩膩既去而脾胃不凡、二公之語洵爲知言、然則不特風騷之賞、雖紆青祁紫之輩、亦不可一日無此味也、豈與彼種秫釀酒令人華狂、而葉病者可同日而語哉、自今以後一郷子孫承繼不墜、益殖其産、則狹山之種將不讓宇治、而三人者之名、亦與谿山共傳悠久也不疑已、抑夫土宜之興廢雖隨時而變、然人力之勤惰實參存於其閒焉、吾未知今日之擧果爲永傳乎、若其必欲永傳也、則蓋在爲其子孫者、以人力保之矣、姑識歳月以竣、
天保三年、龍集玄■(黑+弋)執徐、清和月       林踪撰文      巻大任書
               窪世昌刻
【碑陰】
茶場之闢、逐漸繁殖三十餘年之間、茶戸已有三十二矣、郷有山人玄逸者、嘉其有成慫慂隣曲立豐碑告後昆、以庶幾永世繼續無墜其業也、於是闔戸欣悦爭資工費、今茲丙申碑初畢功、而山人不及見之、墓已宿草生矣、余於山人有三十年之舊、因志縁由以寄歎慨云、       蔆湖巻大任
親マップ: 重闢茶場碑 by がらん
garan
『茶場後碑』釋文
【隷額】茶塲後碑
【本文】
重建狭山茶塲碑記     江戸 中邨正直撰
關左之以茶名者曰狭山焉、與宇治東西相頡頏、或曰其茶香氣出于宇治之上、狭山者在武蔵入間郡、其始不過一荒僻之地耳、自種茶以来逐歳増殖、其名既大彰、藕潢林君文可徴也、盖自海關禁弛互市盛行、我國茶葉爲出口品之冠、毎年輸將于海外者千有萬斤、如宇治之製昔獨擅美于邦内者、今則著稱于歐亞、而狭山之茶後起争雄、至于洋賈之旅于東者、非其記號不顧可謂盛矣、抑利之所在民之所赴也、昔者關左地曠人希、彌望黄茆白葦、爲豺狼狐兎之所窟宅者、盡已墾闢爲沃壌、而其所出之茶、則莫不題簽曰狭山、狭山之名于是乎廣矣、原夫舊碑建于天保三年、是時未有海外互市之事、然而人民勤勉倡導以致産物熾盛若豫立今日輸出品之基礎者其功豈淺尠哉、前事之不忘、後事之師也、夫既知狭山茶塲之成實、由于其父祖勤勉之力、則當知後来之福利、又在其子孫之継續不怠、以益恢弘前緒焉、可不勗乎、且予聞之人民之克勤職業務富一家者其利于全國大于一家之利焉、今既嘉狭山人民之勤勉于昔日、以致昌盛于今、則又更望其堅忍耐久不屈撓于少利害能光前而啓後益有以崇殖邦國之福利也、熊谷縣人某来代言其郷人之意、求余文勒諸石以追配舊碑、余深喜此擧、故應其請而系之以詞曰、
 茶産東方 味甘且香 狭山之郷 此焉開塲 土性最良 菟道頡頏 聲名丕彰 壓倒建陽 洋客竸嘗 日購萬箱 沾彼胃腸 富我橐嚢 昔人謀臧 邦國之慶 繼嗣克昌 福利无彊
明治九年丙子五月     秋巖翬書并題額
                    廣瀬群鶴鐫

【碑陰】列名省略 
 *注 藕潢林君文=『重闢茶場碑』文の事。藕潢は林復齋の別号。 
親マップ: 茶場後碑 by がらん
garan
(碑陰)
老友船茂孝阿翁東京向島人以慈悲博愛
爲楽家有餘貸則義捐公事賑恤窮困園有
餘地則貸與学校不收其價頃者在鎌倉寄
書曰圓覺寺梵鐘北條貞時所鑄蓋祈其父
時宗及元寇殉難士冥福也吾亦欲建碑於
鐘樓側弔卅七八年役彼我戰死病歿者余
謂慈悲佛陀之本願也博愛人道之極致也
翁之此擧不獨足慰藉死者靈其關世道人
心不為尠故余喜記之併及翁平生如此
明治三十九年二月
陸軍教授従六位勲六等丸山正彦撰竝書
        藤澤廣田仲太郎刻之
篆額 當山二百十世大教正  
            宮路宗海書
親マップ: 表忠碑 by がらん
garan
洪鐘道 これよりおほかね道 
茲有武陽川越之産心江道圓沙彌者夙発志願廻旋扶桑木□□毎州
奉納大乗妙典全部以償宿債今茲當求願圓成之日捨淨財命工奉造
建一基之石表永充供養且爲當寺洪鐘徑路之道引今往還群生無迷途之患云
 維時元文初歳舎丙辰仲冬如意珠日
garan
國寶大鐘道 
洪鐘辯才天道 
梅澤氏某妻□哀子資道宗恕信士書寫彌陀名號□
十萬遍埋□□山□樓邉而欲建標石於其工教参詣
人不迷取□□□佛名書寫勒則念念即弥陀字字即
浄土永脱塵芥幽顯俱救厥績厥功與石不朽
 文化九壬申年二月  山崎村  梅澤氏
garan
読めず
・妻との夢を 一聲夜々□  
親マップ: 句碑 by winecolor
garan
煢の異体字で下を「几(人)」につくっています。煢、音ケイ、意味は独り身
・震水煢靈塚
garan
読んでみた
・かくらお(神楽男)に しつより坐して もろひとを さきはひ(幸)給ふ 丹生の大神
garan
winecolorさま、おはようございます 読んでみました
・世の中は しらぬこそよかれ 山風を 松の小末に きゝたかる身の   霞城
garan
なると4さま おはようございます。
○についというか句の読み方に悩みました。
○は「香」。
白妙の 土佐寒蘭の 香なりけり  杏子
「白妙」という寒蘭があるそうですが、それは薩摩系のもので、ここでは「土佐寒蘭」と言っているので、白花か、斑入りの物にかけているのか、土佐にかかる枕ことばのか。
これを読んでるブログを見つけましたがちょっと読み方が違います。黒田杏子の作と書いてありました。カメの碑も載ってました。
http://plaza.rakuten.co.jp/hitoshisa...
garan
1階在来線ホーム 15番線(旧東北本線)車止め前
garan
winecolorさま こんばんは
画像とデータをちょこっと加えました。
親マップ: 翼の像 by winecolor
garan
貴重なお知らせありがとうございます
garan
春日大社展(来週の日曜まで)に出かけたら新しい仲間が増えていました。
和装に見えないイケメンなり
garan
志士之碑
昔者荊軻入秦蹀血貫義何况至誠許國壮烈
殉難鬼神豈有不泣哉甲辰乙巳之役勇將猛
卒爲國斃者不可勝數皆足以垂不朽而余獨
於横川省三沖禎介松崎保一中山直熊脇光
三田邨一三六士之死欲不泣而不能也六士
非籍在軍伍身無執戟之責尋常保躬誰儀之
乃不然 天詔煥發外患方棘也憂憤飲血蹶
起謀事意謂國恩荷重社稷阽危此王事不遑
啓處男兒裏屍馬革之秋也事也國與身偕享
之不成獨死其事耳乃指天誓死披肝結義剃
頭故服深入不測之地蓋在欲履危出奇脅敵
背以牽制焉何其志之壯也朔漠冱寒手拆膚
裂鬚眉皆凍荒野千里飲無水食無糧困頓窮
苦冰天雪窟晝伏夜行將一擧爆破雅兒銕橋
機正熟而銕騎突至于嗟已矣壯圖一蹶横川
沖之二士先落敵手檻車送賓
garan
・滝川惟一養老瀑泉詩碑(養老六古碑之内)釋文
多度山高跨二州 飛泉百尺劈崖流 一條縞練懸如晒 萬点明珠砕不収
曽爲先王療痼疾 又教孝子解窮愁 善吾衰境受恩厚 千里來爲養老遊
濃州笠松令瀧川惟一題
文化九年壬申夏 瀧令寄似此詩予爲書之使其刻石庶幾長与此山不朽矣。
     詩佛老人 大窪行識

garan
釋文
【篆額】小金井櫻樹碑
【本文】
小金井櫻樹碑文
挾南滕忠休明夫識  
庠淵上條游子藝書  
肥前守藤原義行朝臣題額  
武州多摩郡玉川上水小金井橋上下両岸櫻樹、 有廟時、 川﨑平右衛門定孝之所種、大凡古者十里餘、今二里間、千株餘云、初定孝及武野墾闢役與而有功、遂解褐司郡、於是乎、請而承 朝命、採芳野及諸邦名種雜種之、郡民子来封植亟畢、實元文二年丁巳歳也、其擧慮衆根深入堤中、而長無壊闕之患、則両岸樹數均、 而南岸葉茂、北岸花盛者、豈徒哉、相其陰陽度其便宜、春随艶陽悦往来目、夏障炎光使行旅憩、且開花鮮美映加清潔、落英繽紛浮不汚穢、又且吾 東方醫家一二方凾櫻嶽及花獄用解毒劑、則水毒亦可解、况両岸千樹相蔭暎、直流径入 東都、何毒之有、宜億兆爨炊之用、煎茶第一之水、所薦於鬼神羞於公侯誠忠用心庶乎仁政一助哉、前十餘年、余誘女婿石子亨、與郷里親舊、歴覧多摩郡中名區、擇優者八所、與子亨議定其目、各附題辭審事實、其一金橋櫻花即此所也、遂題為武野八景、梓以公乎世、於是人察奇勝欲一覧者不尠、爾後遊人毎春相倍從野路、緜緜人肩摩馬蹄連騒人、詞客吟詠相競異説稍間起、余恐吾題辭相混亂人以為鹵莽、與子亨同就定孝孫川崎平蔵于押立村質、訪始終三人相謀刻石防違乎永世、銘曰、
 物之隠顯 遅速有時 千株之櫻 十里水涯 両岸相均 初種者誰 司郡定孝 従何致之 芳野他山
 遠採爰移 多種夭夭 争美花期 瞻望悠遠 若雲離披 土人慣目 猶未甚奇 况都人士 豈曽聞知
 俄然一顕 遊客追随 往還知織 先後連騎 時哉今顕 盛賞花宜 稱種者功 功亦盛馳
文化七庚午年春三月二十一日建
中慶雲刻  
親マップ: 小金井櫻樹碑 by がらん
garan
この碑については菘翁書丹の原稿本が四種伝わっているらしい。http://www.all-japan-arts.com/syodou...
garan
延喜式内伊賀留我神社者、祭神 天照大御神也、攝社稱齋宮者、祭神倭姫命、鎮座伊勢國朝明郡額田郷鵤村額突山東字班鳩有年矣、及明治三年、官考覈諸社、里正某・神官森氏乞余録該社之事、余謝不敏而不允不得己、而諾及敢盡駑鈍之力、謹校舊典皇太神宮儀式帳及倭姫命世記云、活目天皇御世、皇大神從桑名野代宮、遷産鈴鹿忍山宮之際、頓宮此地、即進神御田鵤御厨三町、見于神鳳鈔、若夫別當寺者曹洞宗、而称班鳩山大膳寺、天正七年離回禄而亡、因云額突山麓天武天皇社者、白鳳元年夏六月潜幸之際、於朝明郡迹太川邊望拝天照大神時、獻淅因洗米於迹太川、自後方俗呼之米洗川也、以故垂阪村奉麹於太神宮及禁裏御所、所謂額田御厨是也、確證如此、後世堙没是懼、故建碑以刻其由縁焉、
                       三重刑部隠士館通因謹誌
   明治十五年秋十月
garan
『萬年泉銘』釋文
【碑題】
元文四年己未六月穀旦
 萬年泉
    [削去]謹書
【碑陰・右側】
 萬年泉銘併序
上野有榛名山、層嶂重巒險阻而盤回、西北嶺口窪為一泓池、濶數千畝、池之左路通信州、亶一太山、乎山有祠廟、奉代元湯彦命、命宇摩志麻治命之子、相神武綏靖後入山之窟隠去、乃其薨矣、其窟窈冝深淺莫測焉、用明時始架構於前、即今廟受也、相絶十三四歩許、路左出檻泉□涌自巖竇、雖果潦弗溢弗涸、名曰萬年泉、縁崖穿爲沮爲仰、而太一陰自佳致、凡州人祷雨之泉、祈挹盛諸杓旋、則享于里中社、輙有徴、應其賽、報以返之云、亦一奇也、山多勝概、泉居其甲、固将有待是記、歳庚申三月、□□佐藤芳充請勒于石、余因而銘詩及辭曰、
 山以榛名 泉以年靈 維地之寧 于死于生 何其蒙亡 自幽宮池 任坎中也 無不通池 發源掻沸 流注不竭 廼茲斟酌 雨暘時若 享獨肥泉 雲木則仙 云胡然兮 億萬斯年兮
 元文五年庚申六月上巳日  長崎平君舒撰
親マップ: 萬年泉碑 by がらん
garan
「強軍地蔵」とは初めて見ました。寡聞にして他にしらず。
親マップ: 強軍地蔵 by がらん
garan
 いわれあるんですね。
 鳥居の亀趺も始めてみました。情報ありがとうございます。
garan
なると4さま おはようございます
 碑ののっかった贔屓(ヒイキ)の台石を亀趺というんですが、ウミガメのは初めて見ました。石鐘は三重で見たことがあります。そこは鋳造の予算がなく石で作ったとか。調べると戦時供出でかわりに石の鐘に替えたところもあるようです。
※三重の石鐘 http://hizou.30maps.com/map/132642
garan
winecolorさま おはようございます
木村珪二(1904-1971 )かな。日展評議員。落款画像が記録してあったのでなんとか検索。
garan
テレビ朝日 羽鳥慎一モーニングショー 
2017年1月19日(木) 8時00分~9時55分 ▽遠方からはるばる行列「幻の駅弁」.
チラっと写ってました

garan
winecolorさま こんばんは
 廣群鶴の刻字をおっかけて「小笠原新治碑」を捜索していたらこのスレにたどり着きました。隅々までチェック入ってますね。ぼくも未訪問なのではっきり言えませんが、港の近くにある道標と国地院地図の「石碑」記号から、位置を修しました。http://hizou.30maps.com/map/161957
 明治10年、大久保利通撰文・篆額、日下部東作書、石工廣群鶴(建立は明治13)
 「小笠原新治碑」(文久元、黒川春村撰、廣群鶴鐫)「にほへ碑(筆塚)」「無人島発見の碑」も近くにあるようですが位置特定できないのでどなたか確認を。
親マップ: 小笠原開拓碑 by winecolor
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