garan » コメント一覧

Total: 973
前 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ..... | 20 |
garan
遊山慕仙詩
高山風易起 深海水難量 空際無人察 法身獨能詳
鳧寉誰非理 螘龜詎叵暲 葉公珍假借 秦鏡照眞相
鴉目唯看腐 狗心耽穢香 人皆美蘇合 愛縛似蜣蜋
仁恤麒麟異 迷方似犬羊 能言若鸚鵡 如説避賢良
犲狼逐麇鹿 狻子嚼麖麞 睚眦能寒暑 噱談受痏瘡
營營染白黒 讃毀織灾殃 肚裏蜂蠆滿 身上虎豹莊
能銷金與石 誰顧誡剛強 蒿蓬聚墟壠 蘭蕙欝山陽
曦舒如矢運 四節令人僵 柳葉開春雨 菊花索秋霜
窮蟬鳴野外 蟋蟀帳中惕 松栢摧南嶺 北邙散白楊
一身獨生歿 電影是無常 鴻燕更來去 紅桃落昔芳
華容偸年賊 鶴髪不禎祥 古人今不見 今人那得長
避熱風巖上 逐凉瀑飛漿 狂歌薜蘿服 吟醉松石房
渇飡澗中水 飽喫煙霞糧 白朮調心胃 黄精塡骨肪
錦霞爛山幄 雲幕滿天張 子
garan
釈文つけただけで絶えました。野口師弟像に題書した安岡氏が三浦校長に寄せた輓詩ですね。タグ貼らせていただきます。
garan
相逢相契語人生 朴學童心無限情 椿戯瓢歌猶在眼 神交不礙隔幽明
 憶亡友三浦謙校長  老學正篤 印;安岡正篤 匏堂
garan
惟文化四年單閼之歳、蝦夷有北虜之寇、幕府使我藩戍之、我 君侯命有司使祠官禱事于
鹽竈祠、越五年執徐之歳孟陬之月、爰整戎兵以方啓行戍于蝦夷、而寇賊不侵、四方清靜、是歳辜月卒戍而歸、此實
明神之威靈遠及于海外、而又以庇護我人民也、越明年歳名大荒落月畢玄、我 君侯復命有司使鑄工造鐵燈一座、獻
明神之祐焉、銘曰、
神顯厥靈 恭如天日 云勒斯文 永〻弗滅 
     儒官田邊匡敕奉 命撰并書
(以下列名、略之)
garan
羽衣天女祠碑
羽衣天女事、出於猿樂部之外、未嘗少概見者、是以論者、或謂取大己貴命御天羽車、求伉儷事以附會焉、以余觀之、凡事宣古今、人所誦設以傳諸口碑者、既有其蹤、則不可必謂無其事也、詩云維嶽降神、夫富嶽高大神秀、捜諸宇宙、未聞有其比、則是等神巽偉靈、固其所當有者也耳、巫之神、洛之妃、猶且賦詠以妃之、大氐小知理斷、夏蟲疑氷、造化妙用、殆幾乎已矣、故今斷之曰、神女事、必有之矣、若以紀載無有而致疑、則豈唯羽衣乎、大凡我古籍存于命者十之二三觀於古史風土諸記、殘闕而可見也已矣、夫羽衣事、異域之人猶傳聞稱之、豈可廢之於我邪、余一日陪、府尹牧野君、詣羽衣祠、僅存一石龕、又見其曬衣松者、枯朽已久矣、其斬成板者、藏之於洲之社司家、蓋君之尹于駿府、治績之美人皆見之、而其才之文、又施之其山川、則慨古之情、惜乎數十百年、而龕亦無在焉、遂令羽衣事茫乎就湮滅也、於是乎立石以議其蹤、修古龕着蘋蘩、以永宅厥靈、乃命漁記其事、辭曰、
維昔神神女兮降峻峰、脱其羽衣兮曬高松、芙蓉嬋媚兮乎北渚、神女揚娥兮此從容、漁人攘衣兮不肯還、要觀天仙兮羽衣舞、女也婉孌兮無力拒、鶣擧霓包裳兮飄虹徂、嶽神送風兮激其聲、海童起濤兮奏其鼓、漁子從來兮非凡骨、庶幾攀裾兮凌天間、※仙之蹤兮永不没、海嶽悠々兮見碑碣、
              龜山文學中島漁拜撰
享和三年癸亥夏  駿府尹牧野靭負源成傑立石並書
【碑陰】
羽衣天女祠碑再建記
後龜山天皇御宇、結崎世阿彌作羽衣謡曲、自此羽衣天女之事、頗為人口所膾炙、其後駿府尹牧野成傑夙慨厥蹤歸乎湮滅、令中嶋漁略紀其事、乃建一碑於松下、眞可謂千載雅擧矣、而唯憾石質不堅緻、碑面爲虧損不復可讀焉、於是乎御穂神社司長澤
雄楯氏乎總代宮城嶋文助・川口忠五郎・柴田勝五郎・石野又七・□信徒総代土谷松太郎・松田米次郎・太田彌兵衛等、胥謀別保存原碑丨、明治四十四年九月吉辰、再建此碑於其傍、以垂諸不朽、若夫其碑面則循曾所摹搨之舊、而毫不加改竄矣、要在故重此雅擧而已、應請更書此篆額及碑文、兼撰且書此記文者誰曰、靜岡縣立三保學院長池田忠一也、畫此松者誰曰、土谷風外也、   水崎萬年鐫、
garan
(山縣邸 明治天皇行幸記念碑)
・今茲十月十有九日、 皇上辱臨有朋私邸爲榮宲大、又 恩賜銀觥貨幣、有朋謹獻來圀光刀一口・及梥陰先生書弌幅、此日侍宴者、皇族・内閣諸公・及武官若干名、富山斈校下士奏劍技、宮内官吏等演刀槍術、以供 叡覧方上饌、時使徒軍樂隊奏樂、入夜夛點球燈・放煙火、既而鹵簿告具 龍旂還 闕嗟有朋之幸、洵莫過焉、廼記臨幸始末、併録弐品来由、㠯告來茲
明治十八秊十一月
従三位伯爵山縣有朋謹識 廣羣寉鐫
garan
  故印刷局長従四位勲三等得能良介君碑
君諱通生、稱良介、號薫山、姓得能氏、其先盖出南朝忠臣之裔、薩摩人、世仕鹿児島藩、祖新助君無子、養直助君為嗣、君父也、母得能氏、君生而孤、與母居、母氏能守家教子、君之成立、實頼其訓督云、幼頴悟異常兒、年十七為御記録所書役助、及壯苜歴中外、東西奔馳、率無虚歳、元治元年、京師騒擾、隨藩主上京、與小松清廉・大久保利通・西郷隆盛等、盡力 國事、慶應三年正月、改革藩政、君與有力焉、以勞為長嵜御附人、明治元年三月、遷御小納戸頭取御用取次見習、二年二月、轉傳事、三年四月、 朝廷徴任民部大丞、兼大藏大丞、尋任大藏大丞、十一月為大藏權大丞、允其請也、四年八月、擢出納頭、既罷、五年八月、再補司法省五等出仕、十月進司法權大檢事兼司法少丞、六年十二月、更任司法少丞、七年一月、擢紙幣頭兼任大藏大丞、叙従五位、初維新之際、造紙幣以助 國用、置紙幣寮管理其事、而製造不得其方、贋僞紛出、庶民懐疑 廷議更造紙幣、以交換舊鈔、托日耳曼國面製造焉、君居常論囑製造於海外、不唯失國體而已、他日禍害所及、将有不可測者、及其任紙幣頭也、欲以製造自任、絶贋造之途、上新築工場議、會有臺灣之役、議不輙决、君力言一日不可遷延、遂得 制可、釐寮務、理會計、置庶務、審査、調度三課、改訂工場規程及職制、分場為整理、彫刻、製肉、刷版、調査五局、罷官吏悉為傭使、俾各就業、以率衆工、毎局別部、嚴禁互通、專講防贋秘訣、立約終身従事、其青年者、 官特免兵役、而購機械于海外、聘西人教教師、君日夕巡視、率先自勉、奨勵誘導、無所不至焉、既而曰、工場營築已得 允裁、機械與教師皆備矣、獨至原紙、猶缺完善、何則外國之製、質脆易裂、 本邦之紙、有摩損患、而防贋之術、亦不可不資此、宜製精良強靱紙、以施秘訣於防贋之術、庶幾無復遺憾矣、乃謀水利之便、卜地王子村、剏抄紙局、招工人於越前、其後増置機械、製各種良紙、輸出海外、以開 國益之一端、君刻苦經營所致也、八年九月、以正院印書局、屬之本寮、更名活版局、後又置鍛冶場、以修造機械、其他修寫眞術石版術唖、皆所以助工業濟用度焉、時國立銀行属本寮、 官將改正其條例、君與屬員商跼刪定之、九年八月成、頒行之、日耳曼國所造紙幣、彩紋緻密、稱精巧、然贋造之弊、猶尚不免、且損傷日多、供給不遑、君深審其得失利害所在、斷然改製紙幣、大行交換、以歸一途建議得 可、極工盡技、數年而成、新紙幣是也、是年工場營築落成、十年一月、廢紙幣寮為局、君任大書記官、為紙幣局長、改課局稱某部、二月西南役起、急製紙幣、以為準備、命下之日、君晝夜督促、速告成、右大臣岩倉公 傳内旨慰其勞、 賜金三百圓、十一月十七日、 聖上 臨於工場、勅嘉賞君功績、賜羅紗二匹、二十八日  
皇太后  
皇后亦臨焉、十一年十二月、更紙幣局稱印刷局、従君議也、十三年七月、伊太利國皇帝、寄贈勲章、十五年六月、擢大藏技監、叙勲四等、 賜旭日小綬章、八月十七日、叙正五位、十六年十一月、叙 勲三等、賜 旭日中綬章、先是本局規制已定、自營之道略立、君欲設贏金蓄積法、申禀本省、而不被聽、會 廷議釐革財政、有節經費之令、君乃申前議、請廢定額金、局中一切費用、以蓄積金辧之、後又反覆陳疏、凡及三次、至是年二月始得 允準、君躍然喜曰、積隼所願、一朝獲伸、益率勵局員、於是局中經費悉出於自營、未幾歳計有餘、適 詔擴張陸海軍、因獻金十五萬圓、充軍備費、 朝廷嘉之、 賜内庫金三千圓、太政大臣三條公、傳  旨於姻親西郷従道、以君在蓐也、君自數年前得肺疾、荏苒不已、百方無効、遣侍醫、賜菓存問、盖異敷也、至十二月病革、以 特 旨叙従四位、二十七日終于印刷局之官舎、享年五十有九、以其月三十日、葬于青山塋域、賜祭粢金二千圓、遣侍従、特 賜・紅白皺紗二匹、以 儀仗兵護送、如例式、縉紳故舊及局員送者、凡數千人、道途充塞、觀者如堵、君軀幹壮長、眼光炯々射人、天資質直而有神識、坦懷容物、人有一技寸長一者、延攬愛顧、常自以手叩其頭曰、男児成事在精神、精神不振射、百事無成、故人須養精神、雖事有大小輕重、於己所執、專心従事、勇進不止、莫不到焉者、毎以此勸勵屬員、凡方計一事起一業精思深慮、洞察其前後始末、信其必可成、屹然持重、不少動、其對長上議事也、一不得可、則二之三之、或至四五、廣々不已、遂得其所請、故起工場建築之議、未數年而施設整備、工業日盛、傭使至三千二百餘人之多、君率先夜以繼日、盖十年如一日、母氏老益健、承顔盡歡、孝養備至、平生不甚好佛、嘗登高野山觀空海遺蹟、翻然大服、輙印其即身成佛品、行于世、盖空海擧動超凡、有所契合者云、其虚遷懷善如此、晩酷愛古器古書畫、然亦主於資工場摸楷、非玩物自娯之比一也、暇時弄筆翰、咏和歌、其書運筆飛動、極有風致、擘窠剪字尤妙、配佐藤氏、子男三人、長曰通昌、嗣、任大藏權少書記官、次回通要、次曰一通俊、女七人、長適參議兼農商務卿陸軍中将伯爵西郷従道、次適陸軍少尉宮田耕介、失適軍中佐黒岡帯刀、次適五等驛逓官田中健三郎、次尚幼、次皆庶出、銘曰、
君於文字 平生我詢 銘君幽宅 吾何辭焉 君臨易簀 懇囑僚員 良介雖亡 志則不泯
諸子繼志 良介猶存 吾聽斯言 正襟悚然 嗚呼偉業 成于偉人 觀君志業 請識斯言
明治十七年十二月 
  參議兼大蔵卿正四位勲一等伯爵松方正義題額
  編集局長官兼大學教授十五位勲六等重野安繹撰文
  大蔵省印刷局御雇庶務部長七條平六謹書
親マップ: 得能良介の墓 by がらん
garan
印刷局工師獨逸國人卡路安通布里攸詁墓(Karl Anton Bruck)
明治十三年十一月九日、印刷局工師布里攸詁君卒、十二日葬於城西南青山塋域、局長得能良介誌其墓曰、君姓布里攸詁、名卡路安通、獨逸國馬因河上佛蘭克佛爾特府人也、少習印刷技精通蘊奥、初入佛蘭克佛爾特府東多爾福印刷社、為社長所信任擢於一部指揮長、明治七年、余建議設印刷工場、得制可、乃請政府聘君於獨國為局工師、君於其年十二月入局、夙夜竭力、循循奨誘後進、不數年而局之工業粲然備、擧技能之士、亦彬彬輩出、以得有今日之盛、余之所以倚任君、與君之竭誠、以盡職者方未有艾也、君於去年春得肺病久不愈、余深憂之、數勸之擇地静養、乃遊于相州江島、余遣吏従行、病危又遣吏視之、而君竟卒、時年三十九、訃至更遣吏護喪還京為之營葬、葬日、會者二千四百有餘人、君性朴直、不修邉幅與人交重然諾、而奉職尤謹、卒之日上下皆蒄惜哀歎、夫人由禮君侍君疾盡瘁無所、不至及君卒悲慟不己、葬畢行歸國、嗚呼人誰不死没世、而無稱者比、比皆是君以絶藝名於時、而遠傳其術於數萬里外、使後来者世世奉為模楷、而我國家得永収利用之效、君之名固已不朽矣、爰叙其始末以誌之、
明治十三年一月二十五日、印刷局長従五位得能良介撰


garan
碑石の下調べに出かけてきましたので古賀政男胸像とともに画像をとってきました。位置を修しておきます。
garan
テレビ東京1 所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ! 2019年2月8日(金) 20時54分~21時54分でチラっとみました。
garan
『御嶽山』道標
御嶽山 是ヨリ四十二丁
碑陰;文化二乙丑年春三月 御嶽村 清水重右衛門貞栄獻  桃溪篆 印;林氏 桃谿

『武州御嶽山碑』
  武州御嶽山碑
武之金峯山在多摩川之源、蓋藏王權現之古靈跡也、相傳日本武尊征伐東夷凱歌而歸之日、藏兜鐙於此巓、武藏之名由是起矣、里人稱爲武藏國號之神社、然而垂跡之始邈不可稽焉、天正十九年辛卯、
神祖賜命改作祠宇附㠯三千石、世丗奉祭斯地也、峰巒欝茂形勝幽奇、三伏之候天風凛々冷氣隔人、厥途沿層崕深谿而行有瀑布、吉尋飛流於恠巖邃竇之上、泉石可以洗、昏蒙松杉可以忘身世、雲影揺曳飄空中之素練、松韻飅颼弮微外之氷絃、壁立之翠屏蘚滑、樛木之長蘿夾路、使躋攀者心垢頓滅、塵煤清涼無異、到于補陀洛伽時也、俯視則清流灔瀲碧色如鏡、仰瞻則大嶽峻嶒樵者絶蹤、躡苔磴數百歩而有鐵華表、高二丈餘、現蒼翠煙雲之中、来詣者無不肅然生敬也、宮殿巍峩金碧焜煌輪奐之美蔑以尚焉、其猶絳闕清都移于絶巓歟、予屢探勝跡賞櫻花之故、友人請予作碑銘徴之再三辭不許、囙暢超然之高瞳聊記山壑之神秀樹之其麓系以辭曰、
玉川之源 有山巃□ 高峻幽邃 號曰金峰 山壑奇勝 甲于関東 武尊高蹟 藏王靈蹤 宮闕絢麗 丹青玲瓏 溪流清冽 喬木鬱蔥 泰嶽神秀 瑞氣茲鍾 咨欽咨恭 螭首成功 不磷不緇 以垂無窮
文化三年歳次丁卯春三月      
      青梅 岸鳳質文卿謹撰㊞㊞
      東都 庫山人箕戩書
garan
『素山居士墓碑』釋文 []・□は欠損不明部分

【表題】
素山居士之墓
友人靜軒居士書「良印」

【本文三面】
素山居士墓[碑]銘
今也佛法之[褒?]僧不學問、打鍾掌香已以給衣食耳、其既不學、誦經不解何義、肄儀不辨何理、莫有與蚩蚩民異者、然紫衣朱拂覇持伽藍坐大□□僕徒與士大夫渠禮何無□之甚抑□□□、素山居士、武州埼玉郡平方邨人、以有[廢疾?]幼為僧、性慈志高、住武州甲山地蔵菴、只讀書以樂焉、教授童穉諄諄不倦、意之所觸賦詩、遣興終身不求資格、西然老于塵外、盖惡紫衣朱拂可耻也、安政丁巳遇病以其四月二十四日寂、人壽五十、葬其庵域、法名曰法蓮社燈譽譽無譽礙光傳大德、予為文字之久久矣、乃為之銘曰、
 素山甘素、朱紫視塵、素履享報、超然脱塵
    靜軒居士撰  友山處士書  
    弟子光善建
           長嶌金助鐫字
garan
『寺門靜軒墓碑』釋文
【題書】寺門靜軒先生之墓
【本文】
適來者夫子時也、適去者夫子順也、其去未可知其来莫非有事也、事之成者必有功於家於國而大則可廟、小則可誌、物亦有用乎人而後銘人而無用奚誌焉、静軒居士老矣將去乎順友人松本子邦謂之曰、子貧困如此、顧百歳之後、敝帷或不給、況碑碣我賻一石宜預自誌居士拝曰交義之厚死有餘感但得罪於國而不孝於家何誌之爲曰罪與不孝子之變也、誌於不可誌亦復變以變處變曷不可曰敬奉教矣、乃誌曰、居士以寛政八年生于江戸、幼孤育外家河合氏、既長不謹放縦家道頓寒始改志讀書稍覺有所會遂游四方、文政年間歸江戸投舊主上書書入不報慨然謂今儒雖賤杖書送生庶幾不辱先人褐衣以終不負舊主也、資宅下帳従游稍集、及天保八年以戯著嬰憲不得以儒立於世、於是自燠禾毀形不儒不佛、遂爲無用人、流移局促席不得煖今宜死然未死不知後來斃何地方、乃樹此存之于江戸、家譜曰祖廣瀬長門守諱義本、係新田左中将五世孫、正長二年長門君戦敗入三井寺自盡、其子諱義行東下屬佐野氏改氏寺門世住水戸云、居士誌時年五十四嘉永二年也、
靜軒先生諱胆字子温、其半生涯前記自筆之、尓後卜居妻沼、號両冝塾、又移熊谷郵、及老倦游謝客結廬冑山為終焉地遂歿、壽七十三、明治元年戊辰三月二十四日也、會戯著之責釋乃歸儒籍、今以其所自記為碑文、
         門人等建 根岸友山書[印][印]
親マップ: 寺門静軒の墓 by がらん
garan


【釈文】
武州多摩郡百草邨松連禪寺碑         小田原  岡田雄撰并書篆
距江戸八里、有驛曰府中、自府中南轉西折而行里、所渉於多摩河、而又行半里、有村曰百草、有禪刹是為松連、考寺記、天平中律師道慈始闢山為寺、於今一千八十有餘年矣、道慈即宋史所謂大寶三年入唐求經者也、頼義・義家二将軍之東征也・道經乎此虔祈于應神祠、旋師復来報賽、為建伽藍坊門、古有祭田五百石、不知何人所置也、或傳建久四年源幕府置焉、今猶劑存神祠燈油田名、而田巳散在于他方、贈大納言義貞卿之伐北條氏也、軍聚于此兵殘民火焚寺、寺於是乎如存如亡、多歴年所、慶長中収合餘透、新為菴於故趾、囑主為海印、後為黄檗派、為瑞聖禪寺之末、主僧為光鑑、至今更八住持、曰慧極是為中興開士、曰北宗、曰無文、曰悦門、曰關捩、曰自穏、曰祖門、曰魯菴也、先是  我藩侯祖先君太夫人向井氏、法謚壽昌尼、禪師・君深悦黄檗之道、受其教於慧極、遂與慧極及北宗、謀求古梵刹、而得松連焉、舊所有土田山林存以助寺請、慧極為住持、年給栗米若干、艸包以供佛事、以充僧食時瓶構築陶埴之事、佛殿禪堂相継而成、扁門曰慈岳山、慧極之書也、扁堂曰開山堂、  寿昌君之書也、笏室奉安  君之寿像、慧極・北宋二木像在側、亦壽像也、  君以寛保元年七月晦日、捐館舎、奉 遺誡、闍維 眞體、塔葬于寺門之東、寺所傳蔵皆異代故物、有義家木像及軍器、又有義家鰻書金剛經、吾聞經乃刺血而書者、多失所在、而此經猶在竒矣、觀音大士黄金小像一焜、相傳頼義毎出戰所佩也、阿弥陀佛金銅像二焜、一則北條時頼所置、一則元禄中土中自出者也、按背銘、建長二年所鑄、原武州多西真慈悲寺物也、寺今無趾、可考吾妻鏡載、武蔵國真慈悲寺可證耳、天竺佛銅像一焜、夾侍二焜、古色可愛、納經古銅筒五、亦皆土中自出者也、有年袱、曰弘仁、曰長寛、曰永萬、曰建久、曰仁治、唯建久之筒中貯經片、如敗絮而字尚存一二、凡所蔵于土者、或用壺、或用炭、若石云、魯菴之寞寺也、始不知所為黙坐、有年人隅以為林朽之儔也、而魯囑菲己厚佛、興廢起頭遑暇、則入山刈穢艸伐惡木、以廣觀覧、而得勝賞之所者、無慮十八、居室曰解悶、是其一也、室東向為軒開、軒則連嶺近水、悦目娯心宜矣、題曰解悶、此山自平地望之止一小阜、登而四望、則宛然一高峯矣、最高處曰清涼臺、足以周覧關東之諸州、題曰一覧八州、亦宜矣、聞人名士曳嵶戴笠、而游者日多月夥、非頃刻則信宿、或有遊而忘歸者、人或称魯菴亦為中興開士、魯菴聞之曰、貧道承乏松連際于衰敝疂継餘緒、曷足以當中興號焉、雄曰寺自始闢已入稱中興者三、曰康平、曰慶長、曰享保、并師而四、嗚呼始闢固難、中興亦難、庶幾使後居者、知曩時之所以居焉、蓋初祖之志也、且地為縣令治下久矣、今縣令中村君、善師之美遇之厚矣、間嘗欲因觀音氏之室、而起寶蔵以蔵故器異什、而未能何者工材之價、實非一僧徒力所能辨也、起之日中邨君捐貲相之、郷豪亦不募而来佐、或以其贏餘、修繕殿堂、刻茲碑字費亦中邨君所凶也、且夫修繕之政、獨不自我小田原出者、即松連千秋不改條目之載具焉、則松連千秋甲乙住持所以勤儉辛苦也、寺之蔵弃以師益著、山之蓄積以師益聞、殿堂一垂乎廢、而以師亦振、則中興號在師、不愧請師不辭可也、一日魯菴手寺記・山蔬来請曰、假子之辭、而掲諸石以示衆、是希亦縣令意也、余亦喜魯菴有中興號、于茲寺于茲山也、竊為 我壽昌君不可不敢記、乃記如此、中邨君姓藤原、名知剛、称八大夫、魯菴名知道、自號竹道人、周南人、有詞學兼善畫竹、亦禪餘戯墨耳、辞曰、
百草之邨 千年之寺 神佛所依 鬼不作祟 遺趾故物 衆視不疑 慕古喜今 人遊而嬉 袖乎筑波 懐乎富士 目力所盡 不知有地 山無誣崩 時有廢興 誰能居此 靈佛異僧 鐵門可鑄 余文可徴
  文政十三載歳次庚寅、秋八月丙戌朔越十有五日庚寅建        深川 石匠田靜潤刻
【左側】 石材檀施 平井榮朴利諄 丹羽清葛包教
garan
伊能忠敬住居跡 石標2019伊能忠敬住居跡 石標2019伊能忠敬住居跡 石標2019伊能忠敬住居跡 石標2019
最近の画像です
親マップ: 伊能忠敬住居跡 by ashibe
garan
画像ありがとうございます。いい碑ですね。
親マップ: 道後温泉碑 by がらん
garan
『江戸の奇人 天愚孔平』に碑陰文の紹介がありましたので撰・書・紀年を引用しておきます
・碑陰(題字)
出雲天隆公壽藏碑記 臣孔平信敏撰文
 (本文略)
  安永七年歳次戊戌春三月 藤山惟熊書並篆額
garan
コメントありがとうございます。
garan
こちらも画像出てきましたので貼ります
親マップ: かっぱ河太郎 by winecolor
garan
こちらも画像貼ります。位置を修しました。
・画狂老人卍墓
辞世  ひと魂て ゆく氣気散しや 夏の原  行年九十
親マップ: 葛飾北斎の墓 by winecolor
garan
以前参詣した時の画像が出てきたので貼りました。
親マップ: 葛飾北斎翁像 by winecolor
garan
おはようございます。
足代「弘」訓かと。
garan
鸚鵡岩 2019元旦
鸚鵡岩 2019元旦
万歳楽と福餅の配布の神事が行われていました。
garan
句碑がたくさんある場所ですね。標柱に題字揮毫者の名が見えてましたのでタグ貼らせていただきました。秋田で開業した医者で書家としても名が通っているそうです。彼の揮毫はほかにもあるかもしれませんね。
garan
何ゆへに くだきし骨の なこりぞと おもへバ袖に 玉ぞ散りける
元政上人(日政;石井元政)?
親マップ: 無縁碑 by winecolor
garan
・陟州東海碑 
陟州東海碑
 州古悉直氏之地、左獩墟、南去京都七百里、東臨大海、
                都護府使孔岩許穆書
瀛海漭瀁 百川朝宗 其大無窮 東北沙海 無潮無汐 號爲大澤 積水稽千 渤遹汪濊 海動有曀 明明暘谷 太陽之門 羲伯司賓
析木之華 牝牛之宮 日本無東 鮫人之珍 涵海百産 汗汗漫漫 奇物譎詭 宛宛之祥 興德而章 蚌之殆珠 輿月盛衰 蒡氣昇霏
天吳九首 壞夔一股 颱回且雨 出日朝暾 轇軋炫慌 紫赤滄滄 三五月盈 水鏡圓靈 列肅韜光 溥桑沙花 黑齒摩羅 撮髻莆家
蜑蠻之蠔 爪蛙之猴 佛齊之牛 海外雜種 絶黨殊俗 同囿咸育 厥聖遠德 百蠻衆譯 無遠不服 荒哉凞哉 大治鑛博 遺風邈哉
顯宗二年、先生來守是邦、撰篆東海碑、立於汀羅島、爲風浪激沈、先生聞而改書、今參考兩本、大字用寫本、小字用新木刻、竪于竹串島、時 上之三十五年己丑春三月也、

・大韓平水土贊碑文  三陟府使眉叟許穆
久作忘家 翼輔承帝 勞心營智 裒事興制 泰華之定 池瀆其平
處水犇麓 魚獸發形 而罔不亨 伸欝䟽塞 明門與庭 永食萬國
garan
左側の碑文も気になります。
garan
こんにちは
この碑は上部が欠けているようですね。碑文によると「芲冡=花塚」、花の異体字の「芲(茶の下が匕)」の下半分から残っているようです。塚も異体の「冢」とするところをあやまって「冡」と書いています。

芲冡
松月菴のぬしハ、柿花を好ミ、都あたりの旅寐せしも、千住松
亭の流にさかのほりぬ、其門に遊ふもの少からす、ミな尊みて、霜に
しほまぬ、松の葉の千代にと契りしか、嵐は花と、幻の世□去りし、
夏草しけき、あら野の露と変り行、三歳の秋も、いとはやに
巡り來て、猶そのおもかけ□忘られぬ、尤か□の人ことに、一瓶の花を
手向つヽ、この思ひのたヽにやまんも、本意ならてハ、一坏の土(?、以下剥落)
花塚となんとし、石を建て同志の涙を、さヽけ侍るや、(剥落)
     文化十年癸酉八月  左右宜齋老人書(剥落)

芭蕉を祖とする松月菴という俳人の三回忌の供養塔といったところでしょうか。松月菴はどなたかわかりませんでした。
garan
こんにちは
「舟の行く」というテキストもあるようですが、画像を拝見すると変体仮名の「と(都)」のようです。

卯の花を 手折はつミや 舟のとく 玉良
うつくしと 知に・・・・ けしの花  蝶山
眼に殘る 其俤を 蓮の露  蝶有
露ハみな 蓮の臺に 登りけり  有柳
garan
ナカジンさま はじめまして
 ここのお寺は門前までお邪魔しているのにこのような墓碑があるとは存じませんでした。
 さて「三峰」は画像を拝見すると「玉峰」のようです。深川の書家、田中氏。名爲則、字翼、元日本橋木原店住人。
 画像が鮮明なので碑文も読んでみました。

出井考盤之墓・出井哲齋之墓
庶芟稍怠桀々滋長者稂莠也、播種培養猶患枯槁者嘉苗也、天何以厚稂莠、而薄嘉苗乎、抑将理數之自然、雖造者有不能如何者耶、君諱和、字悌順、出井元愷之長子也、幼従木村子明受句讀、稍長従先君子學焉、渉獵百氏、能詩及文、同社稱作奇才、惜哉、天不假之年、以文政九年正月五日病卒、享年纔十有九、葬于牛込之里法性寺、嗚呼、嘉苗不殖、稂莠弥畝、彼蒼者獨何心哉、太田敦謹撰、玉峰為則書、 印;為則之印 玉峰居士

出井氏女元之墓
元予之第一女也、文化二年乙丑閏八月二日生、五年戊辰六月病死、年僅四歳矣   父悌三建

           ┏女(元)
  考盤(元愷悌三)━━━┻哲齋(和、悌順)

哲齋は元愷の長男で太田晴軒の先君子(父の錦城)の門に入り奇才と称されたがわずか十九歳で亡くなった。
考盤は元愷のことでしょうか。元愷は大田錦城の『九経談』や『梧窓漫』『鳳鳴集』の序などに「出井元愷悌三」と見える人で錦城の高弟でしょう。
元愷悌三長女の「元」は文化五年に四歳で病死していますが、逆算すると弟の哲齋がこのころ生まれています。
 また面白い碑像UPをよろしくお願いします
garan
碑面の画像ありがとうございます。天保飢饉に官庫を開いたみたいな書き出しですが、文章が途中で終わっています。碑陰は文字がないようですので右側面に続いてるんでしょうが、立ち入りできないようですね。
訳読した資料があるようですが未見です。
秋田市声体寺亀趺碑訳読 国会図書館サーチ
http://iss.ndl.go.jp/books/R10000000...
親マップ: 聲体寺亀趺碑 by がらん
garan
玄玄
ジュン・スズキの作で南口の「合体」(未見)陰陽一体だそうです。カメラ故障でプレートなど撮れてません。
親マップ: by route507
garan
掛川駅 二宮尊徳像落款
落款があったが誰と特定できずにいます。
親マップ: 二宮金次郎像 by winecolor
garan
日坂成瀬家略系図
〇成瀬正義(犬山城主)
   ┝━━━━━┳━━正成                 曉心翁
   妙意 ┗━━正義(二世)━━宮内衛門━━〇━━〇━━〇━━〇━━忠兵衛━━┑
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣━━━温────────辰平
┣━━━松浦善十郎
┗━━━辰平 ↑ 

〇成瀬正右衛門──温(大域)━━━宗平

 ※始め温が継いだがのち弟の辰平に譲り、温は書に長けた正右衛門の嗣子となり、のち子の宗平に譲ると明治初年東京に上り安井息軒の門に入る。明治8年宮中出仕、明治12年、勅命によって『集字聖教序』を模して献じ、明治天皇より楠木正成の遺物尚方硯を賜り「賜硯堂」と称す
garan
業海淊淊淮見願舩幸遇波破
時津梁道開釋迦遠出現期
待弥勒遲六字稱來酒肉嘗
三衣着得妻児帯眞言之教宗
意思知否唯西方向大慈仰 天風(押)

それ生命の真相は水火侵し能はず又不滅
の絶對なり人此信念に安住せば肉の呵
責も人の世の非業も夢幻の如くに消へ
失せて無陀無上の歓喜の世界現は
れん   丙子釈日 □一道人天風喝
garan
江戸の殉教者顕彰碑江戸の殉教者顕彰碑江戸の殉教者顕彰碑江戸の殉教者顕彰碑
説明板など画像貼ります。
garan
※五筆とは五筆和尚=弘法大師空海。雲海は尾形氏。大師流四十三世。陽宜は諱か。書画集覧 次第不同 1889(明治22) 明治大見立改正新版書画集覧次第不同 1892(明治25)増補古今書画名家一覧 1911(明治44)に書家として名が見える。門人植竹雲邦(1871-不明)が四十四世となる。
garan
菊池海荘墓碑道標 2018.9
下のほうが剥落していました
garan
化粧地蔵尊化粧地蔵尊化粧地蔵尊
ご詠歌の額がありました
・奉納 西方地藏化粧地藏尊 玉鳳寺
はなのいろ さもあらば あれたまづさの
 たえぬひかりや ごぼさつのかげ  大正10
garan
佐藤氏祖先墓表
佐藤忠恕業已為定府於江戸、而其先高曽之塋皆在河内、武蔵之距河内百里而遠、春秋之祭無所展其墓、蒸蒸之思無由致其誠、於是乎乃立石於箕田長松寺中、以為望祭之表、即命其子貞卿謀余以志其事、余曰、佐藤氏其猶行古之道也夫、或曰、禮云、祭于墓非古也、古者墓不脩、然則佐藤氏或非邪、曰何為其不可邪、亦出人情之不可已也、周有展墓之儀、漢有上陵之禮、晉脩洛陽諸陵、陵墓豈不修而可乎、
皇朝有大事、則必使使者告橿原志賀之陵者、亦古之遺哉、且望祭者趙宋已有其事、臨安淨慈寺後營望祭殿差宮望祭西京諸陵、然則佐藤氏斯擧豈謂不然邪、夫墓祭雖云非古周已有之、今而視之豈不古乎、佐藤氏之果行古之道也、盖佐藤氏自永正間仕于 北條氏、為世臣迨乎、天正之季小田原不守祖主膳、君實従 松巗公於高野山同其辛蟄矣、慶長中 侯家改封于河内、主膳君亦従而家于狹山、爾來世世為河内人、而仲恕君以舊徳温厚、長者召至于江戸累勤積勞為 侯家老、故為定府云、貞卿名元良、好文而材克家之器也、與余同學于豐洲先生、憲己志其事因為之詩曰、
我孝我享爰思厥祖、厥塋安在河閖山阻、邈矣河内維 侯之封、我祖我曽式始式終、吾命于 侯爰遷于東、望祭雖遼靈鍳在天、神保是歆孝思攸宣鐫、斯貞珉視後不愆、、
文化丁丑冬十二月佐藤良忠立石
        駿河 山梨憲撰
        東都 町田救書
garan
徂徠物先生之墓
嗚呼大東物先生之墓也、嗚呼先生、復學於古、歸道鄒魯、博窮物理、立言修辭、德崇名垂不朽莫大焉、嗚呼先生出也、如日之也、乃影之及、無所不照其朦焉、嗚呼、實出先生天位可知也、其爲人其行状、弟子識矣、享保戊辰正月十九日、六十有三卒。姓物部、茂卿以字行、銘曰、
洋洋聖謨 世用惑久 天降文運 斯人云受 乃化乃弘 徽猷維厚 大業已成 日新富有 瑕其不壽 天奪斯人 匪天維奪 有司列辰 嘻我小信 瑕能孚神 盛德不朽 永于牗民
元文四年己未秋七月、門人朝散大夫藤忠統撰、源君岳書
(参考;中田勇次郎 「本多猗蘭侯と荻生徂徠」 - 大手前大学・大手前短期大学リポジトリ)
親マップ: 荻生徂徠の墓 by がらん
garan
お疲れさまでした。石碑といえども減ってくもんなんですね。
garan
本郷給水所公苑
鳩の群像に混じって餌やりのお父さん
親マップ: 『道標・鳩』 by がらん
garan
コメントありがとうございます
garan
ゆひもぐさま 諸々画像ありがとうございます。この夏は秋田一躍脚光を浴びましたね。見たい碑像が増えると思います。
 
garan
川勇次郎君碑
君文久二年二月二十日を以て大垣に生る藩士清水恒右衛門君の第二子後同藩士立川清助君の嗣となる。君助にして頴悟成童より育英の事に從ひ旁ら法律の学を修め弱冠にして辯護士試験に登第し明治十九年業を東京に開き頗る令名あり夙に時運の大勢を洞察し飜然決意身を電気事業界に投じ同卅二年京浜電気鉄道会社を創設す実に関東に於ける電気鉄道の嚆矢たり尋いで東京電力会社を起し水力電気事業に先鞭を著け又照明の忽にすべからざるを察し同志と共に東京電気会社を組織して電球の製造に一生面を開き或は支那に対する電気企業の必要に着目して支那興業会社を創立し或は電気博覧会を開催して電気の知識と応用との普及を図り或は日米両國電気企業家提携の緊切なるを覚り老躯を挺して米國に航し四方に勸説して陰に國交に稗補せるが如き斯界の開発進展に努力せること枚挙に逞あらず就中雨宮敬次郎と力を協せ東京市街鉄道会社を創設し紛々たる群議を排して乘車賃金三銭均一論を提唱所謂均一制度を確立せるが如きは盖し我國交通史上に特筆すべき偉績たり更に東京大阪間に高速度電気鉄道を企畫し交通上に新機軸を出さんとし明治四十年以来廿年一日の如く其の達成を期して止まず亦以て君の志の遠大なりしを知るべし晩年郷里に養老鉄道会社を創設し後揖斐川電気会社を経営するや其の動力を電気に改め又大阪への送電を決行して長距離送電の濫觴を爲し志
業略成るに垂んとして大正十四年十二月十四日病を得て東京に歿す君資性剛穀果断事に当りて惑はず一路所信に直往し毀誉得喪亳も意に介せず活眼時勢の趨嚮を観企畫概ね一世に先んず其の事に從ふや精励其の人に接するや和沢浚迺の誘掖を受くる者皆其徳に服せざる莫し君忙裏閑あれば乃ち園芸謡曲に悠游せるが如き亦以て其の爲人を想見すべし今や君逝きて三年君を追慕するの士胥謀り君が事功行状の梗概を叙し碑に勒して養老山麓に建て以て後昆に傳ふと
伯爵戸田氏共篆額 文学博士 南條文雄撰文
百錬 大野鐵書 昭和二年十二月十四日
garan
・書をよむ上の事ともをくさゝゝ思ひつゝけたる歌 宣長
よるひるの 唯しはらくの いとまをも いたつらにせて 書をよむへし
をりゝヽに あそふいとまは ある人の いとまなしとて ふみよまぬかな
書よむを たゝむつかしき ことゝのみ 思ふはよまぬ 故にこそあれ
garan
ゆひもぐさま 画像ありがとうございます。碑文も読んでみたいですね。
親マップ: 聲体寺亀趺碑 by がらん
garan
chakayaanさま こんにちは
二七市跡の碑は中央橋の入り口に移転していました。
http://hizou.30maps.com/map/205353
また道場跡の碑は松島屋の駐車場にありました。
http://hizou.30maps.com/map/205367
garan
谷中霊園 中里家墓所跡地(2018.8)
更地になっていました( ノД`)、
親マップ: 中澤重信墓所 by がらん
前 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ..... | 20 |