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garan
工事の案内工事現場
平成29年11月27日~平成32年3月までの予定で移転保存だそうです。危うく間に合いました。
garan
正六位勲六等堤董真・室要子墓
君名董真、初稱喜六、佐賀縣士族、為人温厚篤實、幼而好學、長而勤勉、頼善嘗為同僚、視其教授子弟、不敢忽一字、曽曰忽一字則誤人誤、我尚不可也、安可誤人乎、時以為知言、安政二年、命入蘭學寮、六年為蘭学寮指南役、元治二年、藩請幕府入生徒於長崎英學傳習所、君中其選學於米國教師、明治元年為英學寮指南役、二年任大學教諭兼舎長、尋進大學中助教、三年擢兵部省、奏任出仕叙正七位、累進兵部省六等出仕、五年轉海軍六等出仕、叙正六位勲六等為飜譯課長、従七年属飜譯課於規程局、既而規程局廢君為散官、二十年三月三日病歿、葬於此、君在官十有六年、始終以勤勉、見稱歿之日、賜祭粢料若干、榮亦大矣、考名董保、妣東氏、以天保六年正月生君於肥前佐賀、歿時年五十有三、君娶安住保有四女要、生三男一女、長子虎一郎繼、次女豐千代、三子安次郎、四子孝三郎早夭、
明治二十有一年九月  勵齋相良頼善譔並書
garan
海軍大佐正五位勲四等澤野種鐵墓
君諱種鐵、佐賀縣士族、性甚孝友、其處事也奮勵、其待人也懇切、幼入佐賀藩學校、有才名、安政二年命入蘭學校、翌年藩請幕府入生徒於長崎海軍傳習所、君中其選學於和蘭教師、業已成、藩命爲海軍助官、擢艦長、進海軍幹事、明治元年率延年艦航敦賀、二年再撃函館賊、朝廷賜感状及太刀料等、四年藩廢、君管藩海軍解隊事務、甚有力、冬為兵部省所徴、五年任海軍少佐叙正七位、自是補各艦長奔命各所者屢、六年叙従六位、是年率日進艦、與露國軍艦倶航樺太島、露國贈二等勲章、七年従征台軍探偵蕃巣要害處、遂遍測量支那諸港、九年任海軍中佐叙正六位、十年鹿児島之役、率東艦航兵庫、朝廷賞其従事征台及鹿児島之役所樹功伐不少、叙勲四等賜従軍記章、十五年補兵學校次長兼同校教務総理任海軍大佐、十八年二月、 特旨叙正五位、君在官二十有五年、未嘗一日曠公事、為世所重焉、君職在海軍不得歸省、毎與余語憂見於色、既而卜居於東京高輪、即迎父處之、弟守武出嗣納富氏、亦同居、其友愛始終如一、考諱胤薫、配家女諱古能生君、君卒之前年丁考喪君慟哭失度、其年病肺、翌年二月四日遂不、起享年四十有九、葬東京青山、君娶澤野氏、生荒太郎而卒、娶生島氏生四男五女曰、辰次、庚三郎、庸四郎、銕五郎及卒也、嗣子荒太郎以余為父執嘱記其行状以為墓碣、
明治十八年九月相良頼善撰并書
親マップ: 澤野種鐵の墓 by がらん
garan
丁酉七月さま
こちらも画像貼らせていただき、また位置を修しました
garan
丁酉七月さま おはようございます。はじめまして。
 2015年の春に撮った画像がありましたので貼らせていただきました。
親マップ: 行幸記念碑 by 丁酉七月
garan
転ばさん、こちらもありがとうございます。
garan
転ぼさん、ご指南と画像ありがとうございます。戸田橋って埼玉県境ですな。タイトル変更いたしました。
親マップ: 太田橋 親柱 by がらん
garan
転ぼさん。こんばんは
 コメントと画像ありがとうございます。ダムがあっても水量ありますよね。
garan
parurunさま こんにちは
友達にもらったみやげ画像とタグを貼らせていただきました。
garan
栄町公園のトイレ leoくん提供画像
この柱の前のちょっと入りづらいトイレ(leoくん談)
garan
こちらもみやげにもらった画像です
garan
winecolorさま おはようございます。
 友達がみやげ画像を提供してくれたので「四季の像」四作品貼らせていただきました。
親マップ: by winecolor
garan
尾張藩主徳川慶勝の書ですね。多分撰文も。從一位とあれば大政奉還後の建立でしょうか。タグ貼らせていただきました。
garan
転ぼさん 
一連のコメント御返信ありがとうございます。岐阜も西の方には多少ご縁がありますが、東や高山はなかなか足が遠いです。こちらの中山道もお付き合いで歩いたのですが沿道以外は面白そうなものがあっても自由行動もままならずでした。転ぼさんもまたたくさんスレ立ててください。この返信を以て他コメントは失礼いたします。
garan
亀戸天神 木鷽塔亀戸天神 木鷽塔亀戸天神 木鷽塔亀戸天神 木鷽塔亀戸天神 木鷽塔
Rokoさま、おはようございます。
 タグ貼らせていただきました。
 裏側に「紀元二千六百年記念奉獻」「相五睦」列名「水道橋野村保泉刻」などとあり。
親マップ: by Roko
garan
winecolorさま おはようございます
朝飯前に読んでみた?写真がお上手なので結構見えます。

玉井正景大人頌徳碑
  勛一等鳥谷章書
  故正七五玉井正景大人は文久
  三年十一月 日招八幡大神社々家
  □□□明治十八年同職を継ぎ大 に
神徳を發揚し全国神職  会 縣神職
仝交会國学館等の要職を兼任斯道の発展に
尽し奏任定を以て待遇せられしか昭和十二
年十二月病歿す茲に同志相謀りて翁の
徳を頌し以て    之を建つ
昭和十三年□

□は読めない文字、空欄はおそらく石の目を避けて文字がなさそうな部分です。
正累に見えるのは石目の所為で、正景のようですね。著に『祭典必携』あり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8...
鳥谷章は陸軍中将、退役後秋山好古の跡を継いで昭和5年北豫中学校長となった人
garan
釋文
【表題】 木下吉五郎君碑
【碑陰】
木下吉五郎君武藏國高井戸人、父曰三十郎、其三子、以明治七年九月五日生、弱冠辭郷移於東京住四谷區華園町、其爲人恬淡寡欲、能盡公共不吝勞資、好談政治奔走多年、夙欽慕大隈重信侯而、入憲政會、爲東京支部之役員、専心努力黨務十餘年、偶與同志相謀組織憲政公和會、于時大正十三年六月企畫經營頗竭心力、惜哉業未央而得病十四年五月十三日歿、享年五十有二、同志相議建碑以勒其績傳之、       瀬川光行撰
   昭和二年丁卯歳五月                 足達疇邨書(以下列名部分省略)
     四谷區永住町 宇田川石材店刻
garan
度々すみません。病字のあとの字がネックとなって文章が途中になってしまうようです。「歹+冬」の字はUCS+Exにはいってるんですがね。これは「終」の異体字ですので次の釈文は「終」字で代用します。

脇屋卿賛
 擧兵廟算 仗義速驅 桓桓雄武 加起懦夫
 戰功籍甚 名與兄俱 病終南海 時乎命乎
此賛者、益軒貝原氏八十餘歳而所作也、余偶讀自娯集得之感懐不能已焉、因謀之於同志相與刻石、以奉建于墓側云、
文政己丑仲夏日 佐伯惟忠謹識     石工 深見武兵衛刻 

 佐伯惟忠は号容齋、京都の儒者(柳馬場竹屋町南住)、;平安人物志(文化10年版)
 深見武兵衛は今治の石工、新居浜市山根町の金比羅大権現の狛犬一対を作る(天保9)
親マップ: 表忠碑 by winecolor
garan
winecolorさま
 釈文入れたといいながら病字のあとは入ってませんでしたね。修正しました。病字のあとの「
親マップ: 表忠碑 by winecolor
garan
waincolerさま、おはようございます。釈文とタグ貼らせていただきます。碑文は脇屋郷となってますが卿の書き換え字だと思います。

脇屋卿賛
擧兵廟算 仗義速驅 桓桓雄武 加起懦夫
戰功籍甚 名與兄俱 病
親マップ: 表忠碑 by winecolor
garan
山下公園通り 日本の道百選
たこはちさま おはようございます 
このタイルの前にありましたので位置を少々修しました。
garan
route507さま おはようございます。
サイン面の画像とタグ貼らせていただきます。
garan
黄昏る女の子台座設計のプレート女の子の落款部分
beerkoさま 敷石に台座設計のプレートがありましたのでこちらに貼っておきます
garan
日本丸 かもめの水兵さん
beerkoさまおはようございます、
碑陰画像とメモなど貼りました。こちらの画像は日本丸の水兵さんたち
garan
winecolorさま コメントたびたびありがとうございます。
こちらは2014年に街道歩きのお付き合いで拝見したんですが、道中の画像整理がすんでおらず放置のままでした。当時の画像を挙げます。
親マップ: 万治の石仏 by がらん
garan
グーグルの「天心托鉢」というのは天心尼の誤りでしょう
garan
堀越家墓所 真央さんの謚号
真央さんのおくり名も入りました(神礼)
・豊愛尚與姫命 
garan
歌碑痕跡 2017秋彼岸
なにか色紙型に刻んだ歌碑が春先まであったが無くなってるぞ
親マップ: 歌碑? by がらん
garan
東海道の終点は五条大橋だったような?
garan
soretanuさま こんにちは
位置を移動してメモを加えました。
親マップ: 粟沢観音 by 匿名
garan
【題額】平野翁頌徳碑
【碑文】
      拓務政務次官加藤久米四郎題額
翁諱武厚、平野氏、勢之多度人、家世為里正、考傳左衛門、嘗有功績、公家賜以石原山一區、翁其長子、實為平野氏十三世、妣鳥山氏、翁襲父後初任戸長、尋値町村制實施、選為助役、後進村長、終身不渝治績大擧、屢受褒賞、多度地分為肱江・小山・戸津・柚井・多度五區、其属多度者、久苦水害、翁百方盡力、遂絶其患、此地又無寺院、翁憂之新建一宇、即今説教場是也、其他山林整理・殖林事業・柑橘培養・桒園開發・蠶業發展等、無一不因翁之力、就中山林整理、一事惠及後昆、民尤徳之如、彼禊瀑亦因翁之起工云、翁明治四十四年四月八日、以職歿、享年六十四、特以村葬之禮葬之、多度村用此禮、以翁為嚆矢矣、翁配鳥山氏、有二男二女、嫡曰武茂、承後不幸早世、次曰凖一、後改承嚴、現為大正大學教授、長女道適石川氏、次脇夭、嫡孫一郎嗣家、翁為人温雅篤實、視村猶視家、毎興一事、苦心滲澹、能奏其効如其經、始郷庠鞅掌、奔走至忘寝食、其他興利除害功績、不可勝數、古所謂循史者、翁其庶幾乎、頃者、多度區民慕翁之遺德、欲樹碑於觀音境内不朽之、使余選文、余曽承乏同地小學校長、知翁深、乃不辭而、叙其概、系以銘、曰、
   拓山治水  民利以全  勸業興學  一郷翕然
   恪勤朝夕  在職卌年  勞績不滅  貞珉永傳
  昭和七年三月   桒名 西塚 槑撰 浪越 大島 徳書
garan
奉寄進 従御社頭至楠阪行道回磴疊石
神靈蹟于此年紀、今不可得而考據、磴道不可轉石猶遷移、厥曠遠者可知也、平野直隆復於舊之志日久矣、長島新田尊崇神祠之輩相助議之、天明三祀癸卯夏五月所營成矣、因記其事如此、
  北勢桑名郡長嶋新田中
 宿坊 平野因幡守従五位下藤原臣直隆
親マップ: 奉寄進碑 by がらん
garan
winecolorさま おはようございます
碑文を拝見すると詩ではなく散文のようです。星加鴨東という人はよくわかりません。星加雪乃という日本画家の御父上が星野鴨東というそうですが当人かどうか未詳。

凡神國一世無窮之玄妙者、不可敢而窺知、隆學漢土三代周孔之聖經、革命之國風、深可思慮也、
凡國學所要雖欲論渉古今究、天人其自非和魂漢才、不能闞其閫奥矣、
有欲建碑櫻井天滿宮者應其需 鴨東星加譲謹書

親マップ: 漢文碑 by winecolor
garan
winecolorさま コメントありがとうございます。治水神大禹に関する石碑を訪問した時に見かけました。
親マップ: 岩流瀬地蔵尊 by がらん
garan
【表題】陸軍歩兵大尉宮崎定穀墓
【碑文】
君諱貞穀、姓宮崎氏、稱彦八、考諱正慶、稱彦右衛門、妣田中氏、以天保十二年十一月四日生、君于土佐城下本丁、家世以武術、仕高知藩、君天資沈靜、寡言純乎武人也、明治四年、朝廷徴藩兵、君以小隊長應召、任陸軍大尉、爲近衛歩兵小隊長、六年十一月解職、七年三月叙正七位、九年夏為熊本鎮臺十三聯隊第二大隊第一中隊長、神風黨之亂、君率部隊鎭之進討秋月賊、十年之役、在城中、日夜激鬪、隊轉戰大分・鹿兒島諸所、凱旋後、依功叙勛五等、賜年金百圓、明治十九年一月十七日病歿于東京、葬于青山墓域、享年四十有五、余與同土佐人也、共守孤城、嘗艱苦實五十餘日、今也君墓木將拱焉、悲夫、配平尾氏貞淑自守善治家道、兒克喜善繼君志、入仕官校已任陸軍少尉、可謂前途多望矣、平尾氏來請文表墓、乃記其梗概如此、明治二十五年二月、
  陸軍中將從二位勲一等子爵谷干城
         鎮西布衣吉田晩稼書
                 井龜泉鐫
親マップ: 宮崎定穀墓 by がらん
garan
こんなに筆筆しいのは初めて見ました。
親マップ: 筆塚 by winecolor
garan
・順徳天皇御製
  菅公    安岡正篤敬書
ひと筋に 頼むも神の ちかひそと
 おもふもうれし 行末の空

確かにタッピツです。読み下しにちと苦労しました。
garan
【篆額】善人松居遊見叟碑
【本文】
善人松居遊見叟碑
古云農工商虞四者、民所衣食之原也、貧富之道莫之奪与、而巧物有餘拙者不足、渕深而魚生之、山深而獸往之、人富而仁義附焉、信哉言也、苟言仁義矣、豈民人所易能哉、松居久三郎、近江國神嵜郡印田村人、初従父買于京攝及關左諸國、貿易吉買荅布采繒繭絲麻苧、為人質實誠愨、而儉勤自率、後受父祖餘業、以致財巨萬、而其居室倉廩不敢改作、被服飲食専務菲薄、家機所出木綿之外不敢服、夏則荅布、但詣郡廨、趣慶弔集會、則服其新製、生平与奴僕同勞苦、歳或旱險不憚霧露、竛竮隴畝、人謂子雖躬勤公田、不必見利益、盍少休息、荅云人受公田怠則罪、利不利固所不論、村民貧窶者、周救靡不至、或与稲子、或當上入不給、助之不俾有負逋、偶有折閲未嘗告訴人、或詰之則言、此吾昧而所致豈可擾官司、乃聞者皆莫不歎服、欲慕倣叟所為、郷俗頗化云、邑係彦根藩封、官曾審其行、數加褒賞賜禄終身、一年侯之巡封、召見賜祝詞國歌、閭里榮之、晩改稱遊見、安政乙卯夏享年八十六逝、有四男、伯久二郎先歿、有子以孫承家、襲稱久三郎、仲季亦歿、叔多七異爨、並克循行叟志、茲庚申夏、邑人与邑正某謀持叟行状来、謁諗余云、遊見翁之徳我邑人如此、邑人念之弗能諠、皆思所以報其徳、願私擇稱號以事、欲以神明號者半、欲以佛陀者半、莫之能定、願以可以服衆心者教、余云、此各欲以其所以尊崇、尊崇之其志不可移、不得已有一、建碑於邑人憩息之所以、為神靈所依、歳時碑下聚者、以擬神明、以擬佛陀、各随其所欲、不亦宜乎、皆云好願亦記諸碑、余既應其願重記、以代銘辭、曰、吉貝荅布繭絲麻苧、貿易所贏幾何非有夫䥫、冶鼓鑄鹽運漕之利、廢居積著之術過於人者、儉勤之務誠意之行、其効至於斯、躬行之人、服之古之、所謂仁義、附焉者非耶、萬延元歳庚申夏四月 貫名苞撰書并篆額
garan
【表題】正七位中溝保辰墓
【本文】
君諱保辰、中溝其氏也、中溝氏世事佐賀藩、考恒多以圓極流炮術名於藩、君續其業、嘉永・安政間、以流炮、屡戌崎陽鎮臺、明治元年為藩之副輜重方、尋為総野軍監付属、従軍於総野奥、有功賜金若干、藩又加賜米十石、四年為兵部省八等出仕、數歳擢海軍權少書記官、為横須賀造舩所建築課長兼基整課副長、叙正七位、君任官将大有為未果、歿於横須賀官舎、實明治十六年八月十七日也、壽五十有二、葬於東京青山埋葬地、君爲人忠厚、規模高遠、而處事周密、是以在官前後十五年未曽有小過、歿之月朝廷賜祭粢料若干旌功、君娶黒岩氏生、清一郎・勝次郎・由三郎・騏柳四子、騏柳夭、清一郎嗣家、
 明治十七年六月、友人相良頼善撰并書
親マップ: 中溝保辰の墓 by がらん
garan
表題】鐘江晴朝之墓
【碑文】
鐘江晴朝、長崎県士族也、小有氣慨好毉術、明治二年遂抛家資、學東京大學、其七年、開業於宗十郎町、人或貧困患病者為恤而療之、年率不下千人、曽曰、毉貪錢非吾志也、将天有所為焉、明治十四年二月十四日罹病不起、嗚呼、   友人相良頼善撰并書
親マップ: 鐘江晴朝の墓 by がらん
garan
winecolor さま こんばんは
よくチェックされてますねえ。
’ということは’ということでしらべたら新日本最西端の駅もありました。この前の訪問では空港からレンタカーだったので見そびれてしまいました。
http://hizou.30maps.com/map/181965
garan
釈文
熊阪定駿之墓
翁諱定駿、字子龍、號鼎州、姓熊阪氏、父者定謙、母者西京西村氏也、翁生頴敏、十歳遊京都、從學于昔博士岩垣先生之門、十五歳歸郷、能撃劍及馬術、亦遊東都、此奄西馬宗匠之門學俳吟、然而尋常繼先人之志、賑恤閭里貧窶、陰德行不遑攻皐一矣、安政四年慕府褒賞、而賜終身扶持米、慶應元年生絲蠶卵紙之課税令出、郡民不服、集合伊達崎粟野河原邊、而勢殆欲動揺、福島城主板倉家爲之鎭撫、因謀桑折代官川上猪太郎氏、命翁此事矣、翁奉命、而盡力苦辛、終奏鎭靜之功、盖是從前陰德之餘慶、人民應化所然乎、于茲翁之門人等五十一名、追慕其德建立碑石於高子山先塋之中、請翁之親筆六大字、以傅永世不朽也、
  于時明治二十一年一月廿二日  
     仙林現住吉岡玄虎叟書 
           
     孝子 定宜  徒弟中  敬建  
     石工 深谷富次郎  渡邊 梅吉       
※読み下し文は『白雲館墓碣集』にあります。
             
親マップ: 熊坂定駿之墓 by がらん
garan
釈文
西村久墓碑
珠光院清蓮妙圓大姉之墓
  辞世
いまぞしる 春におくれて さく花も ちるはのかれぬ うき世なりとは  巌能鷹子
君諱久、姓橘、族西村氏、父曰正雄、母正木氏、京師人也、其先出自河内名族楠正勝、文明中勝玄孫正俊、仕于粟田法親王、住於洛外北白川、正俊者楠氏之冑也。常是時足利氏武威震海内故憚改其族稱西村氏、正雄蓋正俊十餘世孫、而君其第二女也、幼而頴悟、事父母有孝、及長嫁爲定謙居士室、生一男三女、二女夭、長子定駿、現承其家、君天資明敏、而有慈惠、常遇婢僕喜怒不形於色、内外懐其恩、定謙居士之卒也、君僅二十九歳、自此寡居治家、定操節烈二十餘年、不墜家聲、其他親睦九族、賑恤窮印民、不異於定謙居士時、郷邑蒙其徳、熊阪氏名、於舊有光者、實其力也、君以文化五年生、安政三年夏四月三日以病卒、享年四十有九、郷黨莫不嘆惜者焉、君平生好和歌、治家之暇、有餘力則吟詠、以娯、稱巌廼鷹子、門人亦頗多矣、今茲建碑以旌其徳、繋以銘、銘曰
 治家有法 節用有經 賑恤窮乏 郷邑頼寧 家聲日弘 松柏操馨
         東都 白井篤治 撰
條理整正行交有法 艮齋 安積信  評
         適山 熊阪亢  書
            菊田關雄歌書
         孝子 定 駿 建之
親マップ: 西村久の墓 by がらん
garan
處士君益熊阪翁墓
克爲後於盤谷先生者、曰熊阪君益、諱定謙、亦稱一宇右衛門、夫以.先生之積善世家聞於天下、與其德明、而抜君於二千里外以爲養子、則君之賢、何待賛揚、君既承嗣、益脩舊德賑濟不倦、家世故事有賜旌盛典、有著作刊版、而君享家日太淺、以故未宅遑也、使其登年、則熊阪氏之名、于舊有光、惜哉、君本京師堀氏子、寞政四年壬子八月二十八日生、文政十三年庚寅、來陸奥繼熊阪氏、天保七年丙申十月二十一日逝、歳四十五、葬先塋次、娶京師西村氏生男定駿、字子龍、女三人、二夭、余於隈阪氏五世通家、子龍、故念爾祖、遠使余銘君墓、銘曰
  京畿之松 昔移奥邦 或類似之 君亦來東 胎厥清風 家傳嘉種        
  尾張秦世壽撰
天保八丁酉八月
 葉室權中納言顯孝卿篆額
  奉勅 現董仙林大休比丘書
      孝子定駿建  
garan
釈文
熊阪槃谷墓碣釋文
【篆額】處士盤谷熊坂翁之碣
【本文】
先生諱定秀、字君實、盤谷其號、亦號太行山人、一字宇右衛門、亦稱軍次郎、先考台州、德望播海内、母寺島氏、生先生於明和四年丁亥六月十三日、五六歳識字、及八歳台州授以考經論語、未卒業而善詩文、十五學弓劍、寛政庚戌辛亥歳、荐遊學東都、師事柴野栗山先生、、時年二十四、庚申春復遊焉、當時所著、南遊坊載録、戊亥遊嚢、繼志編等行于世、但繼志續編、詩家皀軌未刻、於是一時文士、莫不知有先生、至于清國舶所齎知不足齋叢書中、有稱讃坊載録、遊嚢二書之語、其聲名致遠如此、而先生則不欲以文辭稱、益潜思六經、以周孔之道自任、先生事親、定省特至、其容温、其言祠、未曾自欺一言之失、雖歴數年必曰、嘗有是言吾過矣、常存志經濟、然而以無兄弟守先墓不能出仕、邦國膏澤於民安命脩業、常繼父祖之志、賑恤郷黨貧民、毎歳仲春、出貸菽麥、以助其東作、季冬貸金錢、以償其逋租、皆不取息、有不能反者則直折券、有病者令醫治之、凶年則爲村代全納税、如此者三、又賑濟岡村、長倉村延燒戸、寛政十年戊午十月十日、褒賜銀三枚、實 列相吉田侯令之也、文化元年甲子四月十六日、 許身帶兩刀、賜銀十枚、實 列相大垣侯令之也、己巳歳傅家于子定懿、養痾鯖湖温泉、定懿亦以克繼家風、事賑恤國家降奨善之、 命亦如先生之例、先生使定懿納粟千石於 縣庭、爲凶年之備、毎歳貸他邑、収息以賑里中、丙子八月二十五日、更降 命許子孫永世佩兩刀、實 列相長岡侯令之也、文政三年壬午、先生客在東都、後年冬歸再視家事、以定懿病也、丁酉秋穀價踴貴、先生以錢粟、分恤里中、又遠慮穀益貴、出貸金若干兩、於高子、大鳥・高成田・上保原四邑、使貧民豫貿糴、又諭家人曰、奥人皆饑、如何獨飽、乃共食殆糲、丙戌季春、復悉出所有粟冫四邑、明年出金許多兩、爲四邑貯蓄、保原則白河侯之邑也、侯嘉先生、戊子十月致食禄、然以其愧素餐、所稟禄儲積、兪下保原東作、是歳爲里中、創設常平倉、於是郷人視先生猶父母、定懿自丙戌歳、養病於京、以丁亥仲冬四日終焉、己丑十月、先生得病月餘、有間嘆曰、病雖少愈、吾今六十三、體羸気衰、朝不慮夕、無後嗣以守先墓是憂、有皇都冨商村井氏、開禍於奥之福島、先生與議後事、村井則以皇都堀氏長男定謙、媒養子、先生竟以庚寅閏三月二十一日易簀、享壽六十四、越葬高子山先塋次、執紵者不可稱計、皆如嬰兒失母、浮屠氏號曰眞松院盤谷理元居士、先生娶富田氏生一女一男、女夭。即卸定懿、字達夫、號斗南、又號孝川、俗稱八百枝、先没、富田氏没、繼娶佐藤氏、生一女一男、皆夭、佐藤氏没、更娶某氏而出之、又畜妾無子、定謙字君益、亦守遺訓、務恤云、鼎不敏、於先生之德業、固萬不能擧一二也、然緬寓書請銘。盖鼎也、三世通家、不應辭、銘曰、汪乎氣宇、風高心清、視金如泥、視士如瓊、其言其行、秀於羣英、嗟嗟巳乎、世更難平、
                         尾張秦鼎識  
天保二辛卯春三月、敕賜前永平見法雲安大休應需書、
  従二位宰相四條藤公親書篆額九字、爲賜、嗟先生身後之榮重矣、
                         石工滿古彫之

読み下しは『白雲館墓碣銘』にあり
garan


熊阪台州墓碑釋文
【篆額】處士台州熊阪翁墓
【本文】
翁諱定邦、一諱邦、字子彦、姓熊阪氏、本姓兒島氏、爲佐佐木盛網之裔、原其出自號台州山人、祖定悠、生于京到于奥、有故冒熊阪氏、其先四郎長範、保元之役、從源義朝刀戟者也、承安之比、出羽由利某、越後藤澤某誘羣盗、横行諸道、偶襲金商吉次于鏡亭、而爲源牛弱所曰殺、世俗惑于劇曲、或以長範、爲跖櫂之倫、宜知其冤矣、定悠配片平氏生定昭、定昭娶秦氏生翁、翁生而頴敏、五歳識字、八歳受句讀、十二三歳能屬文、寶暦十年遊學江戸、師江南溟、翌年西遊于京畿及諧州、明和二年江南溟下世、亡何通姓名于松觀海、觀海太称奇才、安永四年又遊江戸、宇談水・餘熊耳・稻白巖・田金峰・井太室・紀如來之輩、倒二迎、如湯常山、井四明、赤松滄洲、嶋津華山、岡田暢園通雁魚締神交者、頗衆矣、
天朝諸名卿、遙賚詩歌、鷺山酒井侯、鳳樓阿部侯、特有智遇、葢翁所著、西遊紀行、信達歌、文章緒論、白雲館文罫、詩式詩眼、律詩天眼、永慕編等行于世、皆觀其美、莫不称讃焉、翁成童好作文、弱冠好作詩、中年知詩文之無裨於世教、不復多作、經義則幼受宋説、及壮信物氏、五十覺其非、晩年有論、曰道術要論翁爲人神色明秀、性至孝、五歳喪母、哀毀渦成人、事父温淸定省、無所不至、初有志於經濟、而家有二頃田、無兄弟守先墓、不能出仕而行其志、安燼修業、講道著書、以自娯矣、又輕財好施、明和丙戌歳飢、散麥冫贈里中貧民、其後毎歳、春貸菽麥、以助其東作、冬貸金錢、以償其逋租、皆不取息、安永丁酉納粟若干於縣廷、貸他邑収息、亦賑里中貧民、天明癸卯九月、 官賜白銀十枚、且許身佩兩刀、世称姓氏、不藉民伍、以褒冫賑之事、其秋年穀不登、分錢及穀恤里中、又慮穀價貴、貸金若干於高子・箱崎・瀬上・鎌田四邑、使糴爲備、甲辰春斗米直錢三千、餓者在途、復出所有粟、恤諸四邑、免死亡者數百人、其秋有年、四邑之民、還其所借金翁受而不取息、納其金於縣廷、貸他縣収息、備四邑之後患、爾後猶竭力冫賑事、事不可枚擧矣、翁以元文四年己未四月二十三日生、享和三年癸亥三月二十一目病没、享年六十五、葬于高子山中先塋之次、村之父老追慕其徳、斂銭立石、祠於村之中央沼上翁初娶某氏生男定濟、先没、更娶寺島氏生定秀、定秀嗣家、能繼翁志。孫定懿亦能服祖訓、定秀具状因栖龍源子寛乞銘、銘曰、
雄才頴異 強學雅馴 詩肩盛唐 文範先秦 孝慈綏族、救恤活人 郷里稱徳 愛慕無垠
文化乙丑春三月
從二位清原宣光撰
從五位下朝散大夫烏山城主大久保佐渡守藤原忠成篆額并書
孝子定秀建
※読み下しは『白雲館墓碣銘』にあり

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熊阪助英墓銘釋文
【表題】
阿閣院翽鳳起居士之墓
【本文四面】
居士姓熊阪氏、諱助英、稱太七郎、太左衛門助利之弟也、以延賓八年庚申生、以元緑十年丁丑四月四日卒、隼僅十八、葬于保原聚長谷寺先塋之次、居士未娶無子、及享保廿年乙卯助利買田宅於高子村、而遷其姉之子秦豐重、也勅之曰、亡弟助英、不幸早夭、吾憫其無後、汝其奉其祀、世世無絶、遂爲更卜其宅兆、而改葬之于高子山中、使其爲其嗣云、按家譜熊、阪氏之先、稱熊阪四郎諱長範、信州人、按國史、即保元之役、與根井大彌太行親輩、從左馬頭源義朝力戰者也、後二百八十年、有熊阪五郎者、即永享之役、與本荘竹股輩、會于山内、左袒上杉憲實者也、又後百四十餘年、有熊阪圖書者、蓋自四郎、至五郎十餘世、自五郎至圖書七・八世、名字履歴、莫得而考也、圖書蓋當越公景虎時焉、及景虎暴卒、義子三郎與景勝爭立時也、圖書乃助三郎矣、而三郎戰不利、圖書乃亡依北條氏、圖書生主計、天正庚寅、豐臣公撃北條氏、時主計年實十六、從間宮越前守好高、在山中城、既而從好高之孫某入于小田原城、亡何城陥、乃亡匿于州之安達郡戸澤村、遂娶土人女生土佐、土佐既慶長中徙伊達郡保原聚、是爲伊達熊阪氏之祖、土佐生一與惣右衛門、諱助之、助之生佐兵衛、諱助賢、助賢生助利及居士、居士無嗣、豐重嗣、豐重卒、先考嗣、定邦悲其碑字之剥蝕、而不可讀也、買石而新之、遂爲之銘、銘曰、
維昔我組左袒源氏 源氏既亡不復出仕 心隘夷齊食薇是耻 攻掠爲業跖櫂自比 部勒子弟以待其起 夜闘者誰典厩之子 及聞其名結纓以死 世不是察名以不軌 於焉勒銘以揚其美 嗟後之人勿復非毀
寛政四年壬子秋七月熊阪定邦撰男定秀書
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豊重夫妻墓銘釋文
【表題】
慈光院法天了宇居士・曁
久松院法好因比丘尼合葬墓
【本文四面】
居士諱豐重、稱太右衛門、父秦平助、母熊阪氏、郡之藤田驛人、幼而喪父、隨母依于舅氏熊阪助利于保原聚、及長娶桑折驛久保理右衛門勝盛之女無子、乃養助利之女爲子以妻、先考以爲嗣、享保廿年乙卯春正月、奉舅氏熊坂助英之祀移于高子村、冒姓熊阪氏、元文三年戊午十月廿七日以病卒、年六十七、葬于助英之墓次、
久保氏諱阿越、及喪豐重、手自斷髪、更名法死寶櫟、五年乙亥七月廿四日病卒、年五十九、合葬于居士之墓、若夫居士行事詳于嘗所著永慕編、故此不具列、銘曰、
夫婦同德 爲善不倦 欲知其詳 載在家傳
寛政壬子秋七月 熊阪定邦撰男定秀書
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熊坂覇陵夫妻墓碑銘釋文
【表題】
實際院無垢徹眞居士・曁配灋雲院松操壽慶大姉之墓
【本文四面】
嗚呼昔者、先妣松操大姉之損簪珥也、先考覇陵熊阪君徹眞居士、乃與舅氏隱泉菴義州和尚、謀請導師長谷寺宥珍和尚、闍維収舎利、葬于先墓之右、之建碑勒字、如與己合葬焉者、蓋以爲壽藏、且以示爲夫妻也、及先考率、定邦、則棺椁衣衾必誠必信、別卜宅兆於其右、而安措之、遂状其行、乞銘龜山觀海松子、而立石其墓焉、故今唯爲先妣銘于茲碑、
先妣小字小滿、諱阿養都、本熊阪助利之女、爲秦豐重所養、幼而聰慧善書能、爲剪製縷結、又以幼時從其父母久在東都、也頗解中土之音、亦隨善箏、然及伉儷先考不敢復操曲、朝夕執婦道惟謹、蓋先妣生於享保四年己亥、享保十九年甲寅年、甫十六乃嬪于先考、其明年生女名阿吉、亡何又生女、夭、元文四年己未四月廿三日生男即定邦、寛保三年癸亥生男、夭、是歳十一月廿三日以病卒、年二十五、號松操大姉、銘曰、
 深山大澤 富生龍蛇 而生不才 如定邦者、何邪
寛政四年壬子秋七月庚申  孝子定邦撰孫定秀書
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定邦台州妻寺島氏墓銘釋文
【表題】
清光院葉散妙貞大姉之墓
【本文】
嗚呼此亡妻寺島氏之墓、寺島氏諱阿葛、信夫郡福島寺島吉郎右衛門正明之女也、以寛延元年戊辰生、明和二年乙酉年甫十八嫁爲邦也妻、四年丁亥生男名定秀、五年戊子十月十六日以病没、年僅二十一、銘曰、
 斯人逝矣 我心永傷 死生契濶 曷維其忘
戊子十二月熊阪定邦撰 寛政四年壬子冬十一月二十二日男定秀書

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